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仁和寺は、真言宗御室派の総本山で、平成6年(1994)、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)に採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産に登録された。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになる。
仁和寺は、仁和4年(888)に宇多天皇により完成した勅願寺で、皇子・皇孫が門跡を務めたことから門跡寺院の筆頭とされて、「御室御所」といわれている。
応仁の乱(1467〜77)により全伽藍を焼失したが、寛永18〜正保元年(1641〜44)に再興され、このとき当時御所にあった紫宸殿と常御殿が移築されて、それぞれ金堂と仁和寺御殿(明治20年(1887)焼失)に転用された。また清涼殿の古材を用いて御影堂が造営」されたほか、仁王門・中門・五重塔などが建てられ、境内の整備が進められた。現在見られる伽藍は、主としてこのときのものです。
<金堂>
金堂は正面七軒7間、側面5間の大規模な建物で、屋根が檜皮葺から本瓦葺へと改められているものの、蔀戸をめぐらせるなど桃山時代の宮殿建築の趣をよく伝えている。
慶長18年に造営された京都御所の紫宸殿を寛永再興の際に移築して、寛永21年に仁和寺の金堂(本堂として)完成した現存する最古の紫宸殿の遺構である。本尊は阿弥陀如来・勢至菩薩・左に観世音菩薩が脇侍として安置されている。 |
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平安時代前期に光孝天皇が創建に着手した後、仁和4年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、三十余念間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから、「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。
以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡西麓に仮御所を設けた時期もあった。
現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿を移した金堂(国宝)をはじめ、御影堂・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・仁王門(いずれも重要文化財)などは当時の建物である。仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。
西門から成就山の麓にかけて、四国の八十八カ所霊場を縮小した「御室八十八カ所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室桜」(名勝)が見られる。
<五重塔>重要文化財)
総高36.18m、塔身高さ32.7m。寛永21年造営の「三間五重塔姿」である。近世の五重塔のなかでも、古寺の塔としての貫禄をしめしている。 |
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紅葉に包まれた鐘楼と境内。 |
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上左画像は仁和寺の鎮守である九所明神。寛永の再興である。上右画像は御影堂である。
<御影堂>(重要文化財)
寛永再興の時に、慶長年間造営の京都御所の清涼殿の材の一部を賜り、これを再用して現在の姿にしたものである。真言宗の祖、弘法大師ご開山宇多法皇仁和寺第二世大御室性信親王の影像を安置している。 |
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<済信塚>
仁和寺第二世性信親王の出家の師である済信大僧正(954〜1030)の聖徳をしのび追恩謝徳の浄域として定められたところである。仁和寺北院済信大僧正は左大臣源雅信の賢子で時の仏教界の聖僧として朝廷より僧侶として初めて牛車の使用を許された。後世故大僧正追恩遙拝のあといわれている。
<謡曲「経正」と仁和寺>
謡曲「経正」は、生前琵琶に堪能であった平経正の妄執を描いた修羅物である。
平経正は幼少の時から仁和寺御所の御寵遇を蒙り、青山という琵琶の名器を拝借したが西海の合戦で討死したので御所では僧都行慶に仰せつけてこの琵琶を手向け、管絃講を催して、その跡を弔われた。
すると経正の幽霊が夢幻の如く現れ出でて琵琶を弾き、又修羅の苦患を示した。という曲である。 |
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旧御室御所は、二王門を入るとすぐ左手にある。 |
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仁和寺の正門「二王門」。寛永の再興の際、徳川家光の寄進により建造されたといわれている。この「二王門」は京都の三大門の一つで重要文化財でもある。 |
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「必殺 仕事人」の撮影準備。これから撮影が始まるところだが、時間の都合で見ることができなかった。 |