|
|
|
|
|
|
大覚寺の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、真言宗大覚寺派の本山で、心経写経の根本道場・いけばな嵯峨御流の総司所でもある。門跡寺院とは、天皇または皇族が住職に就かれた寺院のことです。
<大覚寺>(旧嵯峨御所)
嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山である。当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺に改められ、徳治2年(1307)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。
宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の休殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅梅梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。
その外、御影堂、霊明殿、五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<大覚寺と源氏物語との関わり>
大覚寺は、平安時代、嵯峨天皇が建立された嵯峨離宮を起源とするとするが、その嵯峨天皇がご自身の御子様達の臣籍降下に際して「源」姓を授けたのが「源氏」の始まりでありであり発祥である、と言われている。
源氏物語の主人公「光源氏」のモデルとされる「源融」は、嵯峨天皇の第十二皇子である。
源氏物語「松風」の巻では、「造らせ給う御堂は、大覚寺の南に当たりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺也」とある。この御堂は、源融が建立した「栖霞観(せいかかん)」をモデルとしたようであり大覚寺境内にあった。(現在では清凉寺境内となる)
源序物語の筆者である紫式部が「式部日記」の中で、嵯峨野の月はたいへん素晴らしく、その中でも特に素晴らしいのが大覚寺の大沢池の月であると紹介されている。
<宸殿>(重要文化財)
江戸時代の初め、延宝年間(1673〜81)の後水尾天皇より、皇后東福門院和子(徳川二代目将軍秀忠の娘)が使用していた女御御所の宸殿を賜ったものです。入口の格子戸は蔀(しとみ)といい、その留金部分には蝉の装飾がある。
また、部屋は五つに分かれ、正面牡丹の間は格式が高く、天井は折小組格天井になっている。
襖絵は狩野山楽によって描かれた牡丹・紅白梅・松・鶴等があり、桃山美術の代表的な作品です。
前面の庭には一面に白川砂が敷かれ、大海を表しており、正面の「右近の橘」「左近の梅」が旧御所の名残をとどめている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<五大堂>
大覚寺の古文書の中に「嵯峨天皇の勅願により嵯峨離宮に嵯峨五台山名王院五大堂を建立し、弘法大師五大明王(重要文化財)を奉祀し、弘仁2年(811)3月11日に利民安世、五大明王秘法を修し給う。たちまち、五風十雨節序にしたがい百穀豊饒し、万民其澤に潤う」と、その由来が伝えられている。
現在の建物は、江戸時代の天明年間(1781〜89)に再建されたもので、大覚寺の本堂です。本来は境内中央、勅使門の正面(現在の石舞台)の位置にあったが、大正14年(1925)大正天皇即位式の饗応殿が下賜され御影堂(心?前殿)として建築されたため、現在地に移築された。
また、現在祀られている本尊は、大覚寺創建1100年を記念して昭和50年(1975)に京都の大仏師松久朋琳と人間国宝松久宗琳の手で新しく造像されたものです。近畿三十六不動尊第十三番の霊場として多くの人々に親しまれている。
<大玄関>(式台玄関)
江戸時代の初め、御所より移築されたもので旧嵯峨御所・真言宗大本山大覚寺の玄関です。大覚寺は、もともと平安時代の始めに嵯峨天皇が造営した離宮嵯峨院に起源し、その後貞観18年(876)寺に改められ、初代の門跡に嵯峨天皇の孫、桓寂法親王が就かれた。日本でも最も古い門跡寺院です。
心経信仰の霊場、芸術文化の殿堂、嵯峨御流華道の根本道場です。この式台玄関の障壁画は狩野永徳によって描かれた「松に山鳥図」です。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<狩野派障壁画の特色>
この障壁画は狩野派の代表作です。安土桃山時代に織田信長、豊臣秀吉は自己の権勢と富を誇示するために障壁画の御用絵師を狩野派に命じた。その当時の手法は、金碧濃彩画と水墨淡彩画の二つに大別できる。
狩野派の絵師は、伝統的な大和絵と中国の宋・元から伝わった唐絵との和漢二つを統合折衷して室内装飾画の形成を一段と発展させた。その技法としては、金箔を画面一面に貼り、先ず自然の一角を実物大に骨書(墨)し、その上に盛胡粉、更に彩色をほどこし、樹木(松)小川などには青緑、白群などの高価な岩絵具をふんだんに使い豪華な金碧濃彩画にした。そこには武士階級の嗜好にともなう松を中心とする巨大な樹木、華麗な草花などがとりあげられ、鶴・亀・孔雀。鳳凰などの吉祥を示す禽鳥類、さらに龍虎などの動物が多く描かれている。
<正寝殿>(重要文化財)
正寝殿には12の部屋があり、上段の「御冠の間」は13世紀後半、鎌倉時代に後宇多天皇が上皇として院政を執られた御座所です。また、ここは明徳3年(1392)室町時代の初め永年の南北朝争乱を治めるため、南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇による媾和が成立したところです。この部屋の後には「剣璽(けんじ)の間」がある。「御冠の間」「対面の間」と共に往時を偲んでいただける。
御座所の障壁画は、狩野山楽の墨絵で「四季花鳥の図」「野兎の図」は、江戸中期元禄時代の渡辺始興の作です。
幾度となく改築されているが、現在は桃山時代様式の書院造りの建物です。 |