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金地院は、南禅寺塔頭で臨済宗南禅寺派に属する。応永年間(1400年頃)、南禅寺六十八世大業徳基が北区鷹峯に開いたのが当寺の起こりであるが、江戸時代の初め、以心崇伝がこの地に移して再興した。崇伝は徳川家康の信任を受けて政治外交の顧問として活躍し、寛永4年(1627)に当寺の大改築に着手して現在の寺観を整えた。崇伝はまた僧録司となって宗教界全体の取締りに当たり、以後幕末まで当寺は僧録司の地位にあった。
方丈(重要文化財)は伏見城の遺構と伝えられ、柿葺き(こけらぶき)入母屋造り、書院造りの代表建築で、内部は狩野派諸家のふすま絵で飾られている。茶室八窓席は小堀遠州の設計で、三畳台目の遠州流茶席として有名である。「鶴亀の庭」と称される方丈庭園(特別名勝)もまた、小堀遠州が直接指揮して作庭した確実な証拠を有する唯一の庭園で、寛永9年(1632)に完成した名園である。境内の東照宮(重要文化財)は寛永5年(1628)の建築で、地方の東照宮の代表的なものである。このほか、寺宝として水墨画の名品など多くの文化財を蔵している。
<鶴亀庭園>
寛永9年(1632)小堀遠州作庭。江戸時代初期の最も著名な造園家小堀遠州が数多く作庭した中で「鶴亀庭園」のみが確実な資料が現存する唯一の庭園で、造園史上極めて重要な遺跡とされている。庭の構成は方丈の前面に白砂を敷いて海洋を表し、前方の丘陵を巧みに利用して蓬莱連山を表す三尊石組を配し其の手前の東と西に亀島と鶴島を対峙させた祝儀の庭である。因みに中央の巨大な平面石を遙拝石というのであるが、其れは方丈(本堂)から東照宮を遙拝するにあたり、この庭が中間に設けた祭壇的役割を成すように設計されている為で、他に類例のないこの庭の特徴とされている。 |
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<東照宮>
重要文化財。金地院崇伝長老が徳川家康の遺命により寛永5年に創建し、家康の遺髪と念持仏とを奉祭す。建築様式は本殿・石之間・拝殿からなりいわゆる権現造り様式である。
拝殿天井の龍は、狩野探幽之筆、欄間に掲げられた三十六歌仙は青蓮院尊純法親王の筆である。(現在の額は画家黒田正夕氏の謹写したものである) |
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<本堂の屋根材>
本堂の屋根は柿葺きです。「かきぶき」ではなく「こけらぶき」と読む。材料はヒノキによく似た「さわら」という材料を使用する。最近はあまり見かけないが「おひつ」とか「桶」にも使用される。この材料を、厚み3o、長さ30p、幅8〜15p程に手割して使う。なぜ手割にするかというと、手割にすると断面がでこぼこしていて、重ねて葺いても隙間が出来て、雨に濡れてもすぐに乾くのと、のこぎりで挽くとのこぎりの歯の厚みだけロスが出るが、手割だと材料んぽロスがない。この材料を葺足3pで竹釘を使用して止める。竹釘は油抜きしたもので、鉄釘のように錆びない。竹釘を一握り程口の中に入れ、舌で1本ずつ送って止めていく。瓦屋根と違い、こけらの屋根は軽快で、柔らかな曲線の屋根となる。
このほかの植物性の屋根としては、御所などで見られるヒノキの皮で葺く桧皮葺(ひわだぶき)、民家等の屋根に見られる茅葺(かやぶき)がある。 |