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寺号を紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六画宝形造であることから、一般に「六角堂」の名で人々に親しまれている。開基は、聖徳太子で四天王寺建立の用材を求めて太子がこの地を訪れた時、霊告によってこの地に御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりと伝えられている。早くから人々の崇敬を受け、弘仁13年(822)には嵯峨天皇の勅願所となり、また長徳2年(996)には花山天皇の御幸があり、西国三十三ヶ所観音霊場(現18番の札所)となったと伝える。建仁元年(1201)、親鸞上人が当寺に百ヶ日間参籠して霊告を受け、後に真宗を開宗する根源となった。本堂には、聖徳太子の持仏と伝える本尊如意輪観音像、親鸞像、毘沙門天立像(重文)などを安置する。本堂前の六角形の礎石は臍石(へそいし)といい、古来、京都の中心にあたるとされてきた。
六角の建物には、六根清浄、すなわち眼(げん)、耳(じ)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)による6つの煩悩を鎮める意味が込められているという説もあるとのこと。
また、本堂北の本坊は池坊と呼ばれ、室町時代以降、多くのいけ花の名手を輩出したところで、華道発祥の地として有名。現在も池坊華道の拠点となっている。 |
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<親鸞聖人と六角堂>
堂僧として、比叡山延暦寺で求道の生活をしていた親鸞聖人は、建仁元年(1201)に百日間の六角堂参籠を決心した。それは、親鸞が「和国の教主」として尊敬する聖徳太子創建の六角堂に参籠して、太子の導きによって宗教的苦悩の解決を図ろうとされたからです。そして、95日目の暁に太子の示現をうけて、吉水の法然上人を訪ねることになる。時に親鸞、29歳のことであった。 |
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<へそ石>
桓武天皇の延暦12年(793)京都へ遷都の時、六角堂の所在が道路の中央に当たったので天皇が遷座を祈願されたところ御堂がにわかに5丈ばかり北へ退かれたという。
この石はその際に取り残された礎石であると伝える。また、京都のほぼ中央に当たるところからへそ石とも要石とも呼ばれる。 |
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この礎石は、六角堂境内の発掘調査により天明8年(1788)の正月に焼失したと見られる遺構面から出土したものです。正方形に近い型があり、根石組に使われていた状態から16世紀前後に建っていた六角堂の礎石と考えられる。この礎石には長い年月の庶民の祈りが込められている。 |