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「本能寺の変」で名前はあまりにも知れ渡っているが、現在の本能寺は豊臣秀吉の京都大改造により現在地に移転してきている。織田信長の廟や本能寺の変で討死した者の合同慰霊碑がある。元は日隆聖人が開祖となり応永22年(1415)に建立された法華宗本門流の大本山である。その時から現在まで他宗による破却や本能寺の変など戦乱・大火などにより7度の再建を繰り返しているそうである。なお、「本能寺の変」当時の本能寺は、現在地とは違う所で、現在の京都市中京区元本能寺南町にあった。
<本能寺>
法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日降上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折り、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。
<由緒沿革>
当山の宗名は「法華宗」くわしくは「妙法連華経宗」という。
宗祖日蓮大聖人の滅後133年開基日降聖人が法華宗の正義を再興せんが為、応永22年布教の根本道場として創建された。
史上有名な「本能寺ノ変」は、天正10年6月2日、一代の英雄信長も光秀の不意襲撃を受け、当山の大伽藍と共に一辺の煙りと化した。時の本能寺は四條油小路に在り、秀吉の代寺領換地となり現在地に移転、信長の第3子信孝の願いにより、当山内に信長公廟所をまつる。
現本堂は創建以来の第七建立、建築様式は鎌倉室町時代の粋を集め、およそ十ヶ年の歳月を費やして昭和3年に完成、大正昭和期に於ける我が国の代表的木造寺院建築といわれる。 |
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<信長の墓所>
信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正10年(1582)6月2日早朝のことだった。本能寺の変である。その頃の本能寺は、四条洞院(とういん)にあり、四町四面の広大な寺域、周囲に掘と土塁、その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎(うまや)を備えるという城郭構えになっていて信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。
この大伽藍が烏有に帰し、光秀の天下もわずか十数日で終わったあと、信長の三男信孝は信長らの燼骨(じんこつ)収集の作業ををすすめ、本能寺の変から一箇月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた。この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。此の御廟には、武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている。 |
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本能寺の変戦死陣歿之諸霊の碑 |
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本能寺は油小路通にあった。ここが織田信長の終焉の地であるのかとしばし足を止める。本能寺の変が起こらなかったら日本の歴史は大きく変わっていただろう。歴史の転換点になった場所である。現在は、当時を偲ぶものは何もないが、「本能寺跡」と刻まれた記念碑に想いをはせた。
<朝鮮通信使ゆかりの地>
享保4年(1719)、徳川吉宗の八代将軍襲職を祝賀する目的で、江戸時代に入って9度目の朝鮮使節(通信使)475名が来日した。
このうち大坂どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に同年9月12日に鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊した。通信使の正使らは本堂に泊まり、塔頭の蓮承院は上宮、吉祥院は通訳官、本行院は五山僧などが利用した。その間、貫首以下の一山の僧侶たちは一時他寺などへ立ち退いたことが当寺の記録である『両山暦譜』に記されている。
この夜、京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の命による饗宴の席が設けられた。このとき通信使の随員であった製述官が著した見聞記『海游録』では本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べている。江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在した。
また護衛役の対馬藩主宗氏の一行やその他の護衛の日本人たちは本寺の周辺の寺院や民家に分宿した。 |