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<寂光山 常照寺>
当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第二一世寂照院日乾上人を招じて開創された山城六壇林の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。
吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天下随一の太夫と謳われた二代目吉野太夫(灰屋紹益の妻)が寄進したものである。
境内には本堂を中心に開山堂、鬼子母尊神堂、常富堂、衆?堂(書院)、梅樹庵(庫裡)などがある。また吉野太夫の墓所や吉野窓を設えた茶席遺芳庵、聚楽亭や全国でも唯一の帯塚などがある。
毎年4月第3日曜日には吉野太夫を偲ぶため「吉野太夫花供養」が行われ、太夫道中や供茶法要、茶会などが催され全国各地からの参詣者で賑わう。 |
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<帯塚由緒>
万葉の昔から今日まで帯は時代によってその様式意匠に幾多の変遷を重ねてきた。わが国の工芸人達は帯に魂を込め祈りを捧げ、又愛好者もその魂の移り香を懐かしんだ。このように
帯は常に日本女性のいのちを表現してきた。
この日本伝統の美風を永く存続し、染織文化に携わる人は勿論、全国きもの愛好家の美と文化への感謝の象徴として、京洛各界名士の発起により昭和44年(1969)5月全国初の帯塚が建立された。珍しい帯状をなした四国吉野川産の塚石は重さ6トンあり、苔をもって鷹ヶ峰三山を表現した庭園は中根近作氏の設計監理によるものである。ここに帯着物を供養し皆様の幸福と文化の発展を祈るものである(解説文)。 |
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<名妓 吉野太夫の墓>
吉野太夫は西国の武士松田某の娘として育った。故あって後、京都島原(六条三筋町)名妓となる。遊女としての最上位にあったというだけではなく、教養高く詩歌、管弦、茶の湯、香道の諸芸に秀で、当時上流階級の社交場の花とうたわれた。京の町衆の代表的な文化人であった灰屋紹益とのロマンスは特に名高く、今なお美しい語り草とされている。
佳人薄命であった吉野は寛永20年8月25日、38歳の若さで没したが、当山開山日乾上人に深く帰依し生前山門を寄進した縁によりここに葬られる。
後に歌舞伎の第十三代片岡仁左衛門らによって当山に紹益・吉野比翼塚が建立される。 |
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紅葉が美しい常照寺の景観。 |