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<源光庵>
源光庵は、鷹峯山と号する曹洞宗の寺である。
貞和2年(1346)に大徳寺の第2世・徹翁義亨(てっとうぎこう)によって創建され、当初は臨済宗に属していたが、元禄7年(1694)、加賀国(現在の石川県)大乗寺の卍山道白禅師により再興され曹洞宗に改められた。
本堂には、本尊釈迦牟尼仏及び霊芝観世音像を祀っている。本堂から庭園を望む壁面には、「悟りの窓」という丸窓と「迷いの窓」という角窓が並び、前者は「禅と円通」の心、すなわち何事にもとらわれない、おおらかな境地や大宇宙を、後者は「人間の生涯」、生老病死の四苦八苦を象徴しているといわれ、いずれも仏教の真理を表している。 |
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廊下の天井は、もと伏見城の床板で、慶長5年(1600)の落城の際、徳川家康の忠臣・鳥居元忠らが自刃した時の血痕が残っているものを、供養のためここに移したもので、血天井として知られている。 |
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<伏見桃山城遺構血天井>
豊臣秀吉(慶長3年没)の死後、徳川家康は既に所領250万石、家康は天下の権を握ったも同様であった。慶長4年3月13日、家康は伏見桃山城に入った。ところが陸奥、会津若松にあって150万石をうけていた五大老の一人である上杉景勝が叛すとの情報が入り注進をうけた家康は慶長5年(1600)6月16日伏見城を出て会津へ向かった。このとき伏見城本丸に彦右衛門元忠、二ノ丸松平主殿頭家忠、松ノ丸に内藤弥次右衛門家長を留守居とした。
家康は元忠に、「わずかばかりの兵を残して行くが、伏見は要衝であるから頼むぞ」と云えば、元忠は「会津はなかなかの強敵です、一人でも多くの兵を行かれた方がよろしいと思います。伏見は私一人で結構です。もし伏見で変があっても誰も助けてはくれますまい。たとえ何万の兵を残されても結局は同じことです。」と云い「もし会津出兵中に変事がなければまたお顔を拝することが出来ましょう。しかし、事あればこれが永遠のお別れです。」この言葉が事実となってあらわれたのは、家康が江戸へ入り軍勢を整えていたときであった。
7月18日、伏見城守護の元忠のもとへ石田三成、増田長盛らが使者を立て、「伏見の城は太閤が築かれたもので徳川のものではない。早く城を出て大阪の秀頼へ忠をつくされては如何」と申し入れてきた。家康が江戸へ入ったのを見届けると光成は罪状十三ヶ条(家康は太閤の遺言にそむき秀頼をみすてて政務を独裁している)を並べ諸方に奮起を促していた。集まる兵力9万3700余、家康を迎え撃つ拠点として血祭りに伏見開城を迫ったのである。
元忠は「主君家康公は、会津へ出発の折り、固く城を守るべしと言い残しておかれた。どうして主君の命にそむけよう、かくなる上は城を枕に打つ死にする以外にない。」と拒絶した。これを聞くや翌19日夕刻、三成に加担する兵4万がひしひしと伏見城を包囲した。城兵わずかに1800人を数えるのみであった。
伏見城の攻略は10日余り続いた。7月末の夜ついに忍びの甲賀の者、内通し松ノ丸に火を放った。これに勢いを得た寄手(よせて)がどっと乱入。内藤家長55歳をもって戦死。松平家忠も45歳を一期に散り、部下将卆すべて切腹した。鳥居元忠戦い疲れて本丸玄関に腰をかけ息つぐところへ雑賀孫市(秀吉直属の鉄砲頭)が死体をふみ超え肉薄。これをみた元忠は「われは総大将鳥居彦右衛門なり、首を取って功名にせよ。」と叫び自ら腹をかき切った。ときに元忠62歳、ともに討ち死にした部下380人と云われる。
なお鳥居元忠の首は、大阪京橋口にさらされたが、元忠と交わりのあった京の呉服商佐野四郎右衛門が「さらし首とはあまりにむごい」と夜半に盗み出し智恩寺の墓に葬ったと云われる。
現在血の染まった天井は討ち死にした兵士の残せるもので床板を天井としたものである。その血板は本堂全域の天井にわたるが数と処に於いて鮮明な足型、手型等の血跡があり、当寺の悲惨さを物語っている。
当寺は開山卍山禅師と徳川家との密接な関係により、当寺本堂再建の際、伏見桃山城の床板の一部を移したもので、これら諸兵の菩提を弔っており、現在文化財として維持している。(説明版より) |
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境内裏の「稚児井」は、創建されたころ、水に窮した徹翁が、童子に教えられて得たもので、多くの人を救ったと伝えられている。 |