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<大徳寺>
臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺域に別院ニケ寺と二十一の塔頭を有する。
鎌倉末期の正和4年(1315)に、大燈国師(宗峰妙超)により開創され、花園天皇と後醍醐天皇の厚い信仰を受けた。室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。応仁の乱で建物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が境の豪商の保護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建物はほとんど整えられた。
三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裡(以上いずれも重要文化財)・方丈(国宝)など、主要建物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建物である。方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵(重要文化財)をはじめ、書画、古文書など多くの寺宝を蔵する。
茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。 |
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<朝鮮通信使ゆかりの地>
近世の大徳寺には朝鮮国の外交使節団が4度滞在している。最初は天正18年(1590)のことである。この時、朝鮮・中国へ侵略を準備していた豊臣秀吉は朝鮮国王の朝貢入洛を求めた。これに対して対馬島主らが「秀吉の天下統一祝賀」に名目をすり替えて使節団派遣を朝鮮側に依頼し、実現にこぎつけた。一行約300名は同年7月21日に大徳寺入りし、総見院などに宿泊した。やがて秀吉の命令で文禄・慶長の役が始まる。
慶長12年(1607)、戦後初めての朝鮮使節団約500名が当寺に宿泊した。徳川家康の国書に対する朝鮮国王の回答国書を携行し、あわせて戦中の民間被虜人を連れ帰ることが目的だった。通信使の正使らは天瑞院、その他の随員は総見院、真珠院、護衛の対馬藩主や五山僧は興臨庵、聚光院、大仙院などで宿泊した。京都所司代は蹴鞠や猿回しを呼んで歓待した。
3度目は元和3年(1617)、4度目は寛永元年(1624)で、宿館には連行されて京都近辺で日本の主人に仕えていた被虜人が訪れ、帰国を促した通信使の随員たちから家郷の消息を聞いて働哭する場面もあった。 |
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<大徳寺のイブキ>
大徳寺の現在の仏殿は寛文5年(1665)に再建されたものであるが、このイブキも、その頃に植栽されたものと思われる。
イブキは、ヒノキ科ビャクシン属の高木で、日本では本州(宮城県以南)・四国・九州に分布する。イブキビャクシン又はビャクシンと呼ばれることもある。一般に長命の木であるが、これほどの大木になることは稀であり、貴重である。
昭和58年(1983)6月1日京都市指定天然記念物に指定された。 |
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大徳寺の前前に、大徳寺納豆の店がある。この納豆は、糸を引くひきわり納豆ではなく、乾燥させた納豆である。静岡県の浜松にある濱納豆と同系のもである。 |