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<大法恩寺(千本釈迦堂)>
瑞応山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。
承久3年(1221)藤原秀衡の孫、義空上人が、猫間中納言光隆の家卒、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりといわれている。当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。
現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像を安置、また霊宝殿内には快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音菩薩像、千手観音立像、銅像釈迦誕生仏立像など数多くの文化財を所蔵している。
また、毎年、2月にはおかめ福節分会、7月には陶器供養、8月には六道まいり、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。
<北野経王堂願成就寺>
このお堂は、足利三代将軍義満が、明徳2年(1391)11カ国の大領主陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて兵を挙げたが(明徳の乱)逆に義満により内野の原に於いて討滅せしめられた。
将軍義満は、その翌年、叛いたとはいえかつての功労武勲を思い氏清とその一族、あるいは戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、一千百人の僧侶を集めて供養せしめ、引き続き応永8年に北野社の社頭に、東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、「北野経王堂願成就寺」と名付け毎年10月、10日間に亘って万部経会並経典書写などの仏事を行い供養した。この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。
なお、応永期には大部の経典「北野社一切経五千五百余巻」(重要文化財)を書写奉納せしめた。観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。この大堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に寛文11年に解体縮小されて小堂となり、仏像並びに一切経五千余巻、義満筆「経王堂額」什宝遺物の一部が本寺である当山に移され現在霊宝殿(収蔵庫)に保存されている。(重要文化財)
又解体された遺構の木材は当山に運ばれ復元、縮小されたのがこのお堂である。堂の右前に、山名氏清の碑が建てられている。 |
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