|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
本門法華宗の大本山で、卯木山と号し、日像上人(にちぞうしょうにん)を開基とする。永仁3年(1295)に、柳屋仲興道妙蓮が日像上人に帰依して、西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺と称したのが当寺のはじめで、永享(えいきょう)年間(1429〜1440)に、日存、日動、日隆、日慶らが、大宮通四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改めた。
その後、たびたび寺地をかえ、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第造営のとき、いまの地に移った。現在の建物は、天明の大火(1787)後の再建である。
玄関、奥書院の襖絵は、長谷川等伯一派の筆といわれる濃彩の金碧画で、庭内の奇石とともに秀吉が寄進したものと伝える。なお、寺宝には、本阿弥光悦の筆になる立正安国論(重要文化財)などがある。 |
|
|
|
|
|
当山内東北の境内墓地に平成14年2月に再建された赤穂義士四十六名の遺髪墓が存在す。
元禄14年(1701)勅使下向の接待役であった赤穂藩主浅野長矩が、城中典札の儀にて恥をかかせた吉良上野介を刀で斬りつける事件を発生させた。江戸城中では許されぬこの事件の罪で浅野は切腹となった。
主君の仇を討たんと決起した赤穂藩の家臣大石内蔵助(良雄)ら四十七名が吉良邸に討入り上野介を討ち取ったが、罪により切腹となった。その四十六名の遺
髪を同士であった寺坂吉右衛門が赤穂城下への帰路道中、京伏見に住む片岡源五右衛門の姉宅に立ち寄り、当時の事情により遺髪を託した。
赤穂義士の遺髪は、主君の三回忌にあたる元禄17年2月、この姉が施主となり菩提寺である当山に墓を建立し納められた。以降三百年の風雪により損傷甚だしいため、当山により再建された。 |
|