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<東福寺>
恵日山と号し、臨済宗東福寺派の大本山である。藤原道家が嘉禎2年(1236)東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して東福寺と名付け、禅僧円爾弁円(えんにべんえん:聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256)完成した。
その後、火災を受けたが、室町初期には道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至った。明治14年(1881)に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っている。
三門(国宝)は室町初期の作、禅宗三門として最古の遺構である。禅堂(禅僧の座禅所)、東司(とうす・便所)、浴室も室町時代の建物(重要文化財)でいずれも禅宗建築の重要な遺構である。本堂、方丈は近時の再建で、開山堂に至る渓谷には多くの紅葉があって通天橋が架かり、また偃月橋、臥雲橋が架けられて紅葉の名所をなしている。
<聖一国師>
聖一国師こと円爾弁円(1202〜1280)は、天皇より初めて国師号を贈られた禅僧です。駿府(現在の静岡市栃沢)に生まれ、久能山久能寺(現在の久能山東照宮)に登って堯弁(ぎょうべん)法師の室に入った。その後、三井園城寺で天台学徒となり、栄西(建仁寺開山)の高弟、行勇・英朝を師とした。
33歳で宋に渡り、杭州径山万寿(きんざんまんじゅ)寺の佛鑑禅師の法を嗣ぎ、六年を経て帰朝。筑紫に崇福寺・承天寺を建て法を説き、名声が国内に及ぶや摂政関白・九條道家に都に迎えられ東福寺を開山。やがて歴代天皇や幕府の帰依を受け、京の岡崎尊勝寺、大阪四天王寺、奈良東大寺などの再建復興にも尽力。延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導して、その学徳は国中に称えられた。
国師は中国より多くの典籍を持ち帰り、文教の興隆に寄与。また水力を用いて製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興すとともに、杭州径山の茶の種子を郷里に伝えた静岡茶の茶祖でもある。 |
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<開山堂>
1280年入定(にゅうじょう)の聖一国師を祀る。楼閣そびえる伝衣閣(でんねかく)にある「三国伝来の布袋」像は伏見人形のルーツ。開山堂の横にある普門院前の庭園は江戸中期の名園。 |
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境内の庭園。陽に当たって生き生きとした緑が印象的である。 |
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<本堂>(仏殿兼法堂)
昭和9年(1934)築の重層入母屋造の大建築。天井には蒼龍図は堂本印象作。春の涅槃会には明兆の大涅槃図が公開される。
<東福寺にイブキ>
東福寺は、鎌倉時代の中頃、九条道家により創建された古刹で、開山には聖一国師( 円爾弁円)が迎えられた。
この木は、国宝の三門と仏殿との間、西よりにある。高さ16.5m、胸高の周囲3.36m。枝張りは東西10.5m、南北に8mある。
江戸時代中頃の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」には「円柏の古樹は開山国師、宋国より携へ来る」という記載とともに鳥瞰図の中に「唐木」として描かれている。また、1700年前後、土佐光高によって描かれた東福寺境内図(テェスタービーティー図書館蔵)にも古樹の風格が見事に描かれている。
本樹の雄大な姿は、明治年間の仏殿焼失の際損傷を受けたらしく、主幹の北側に多くみられる枝の切断あとはその時の処置によるもののようです。
江戸時代には既に古樹として知られ、開山国師とのゆかりも深いこのイブキは、東福寺の歴史と文化を理解するうえには欠かせないものといえる。
昭和63年(1988)5月2日、京都市文化財保護条例により、京都市登録天然記念物とされた。 |
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<三門>(国宝) 室町時代 応永12年(1405)
東山三十六峰「慧日山」の麓に聳える国宝(指定:明治30年(1897)12月28日)「三門」。一般的には「山門」と表記され、寺域の入口(境)を指す。しかし、東福寺では、「三つの門:三門」と表記している。この意味は、「三解脱門」の略で、涅槃に達するための通らねばならない門とされる。三つの門は「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無作門(むさもん)」である。大きさは、五間三戸、二階二重門、入母屋造り、本瓦葺き、左右に階段を覆う山廊を有す。構造的には大仏様(天竺様)であるが、視覚的には禅宗様である。三門正面二階には北朝第4代将軍足利義持に筆である扁額が掲げられている。大きさは小さく見えるが畳三畳分あり、又、力強い筆運びである。二階内陣中央に35歳と云われる宝冠釈迦如来坐像、左前に月蓋尊者、右前に善財童子、両側に十六羅漢が安置されている。
天井・柱には極彩色の迦陵頻伽(極楽に住む人面鳥身の架空の鳥)や飛龍(極楽に住む応龍)を描き、又金襴巻や牡丹唐草等で天上界を表している。天上界は悟りに達した精神界究極の世界を現していると言える。東福寺の僧である兆殿司・寒殿司の筆にて描かれ、三門内陣に心の存在を感じさせる空間を創造している。大屋根の四隅の角柱は、桃山城崩落の天正大地震による三門の傷みを天正13年豊臣秀吉が行った大修理の際に補足した柱で、通称「太閤柱」と呼ばれている。 |
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三門の模型(佐倉国立歴史民俗博物館) |
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<東司>(重要文化財)
「東司(とうす)」とは便所の建物を云い、俗に百間便所(百雪隠(せっちん))と称し、子供たちは「100人便所」とも云っている。禅堂の横に必ず「東司」が置かれる。禅宗叢琳の便所では日本最古最大で、現存する唯一の遺構である。
当時の排出物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜には欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所をおいしい野菜で潤した。叢琳としても現金収入の大きな糧となっていたと云われる。 |
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<禅堂>(重要文化財)
禅宗の叢琳で重要な建物である禅堂。選佛場とも称し、座禅を通じ自己究明と自己の心の佛を撰ぶ場所である。僧侶になるための修行道場であり、修行僧である雲水が、座禅はもとより寝食を行う所であった。昔は400名以上の僧が修行を行ったこともあった。
内陣の「選佛場」扁額は宋国径山万寿寺の無準師範(佛鑑禅師)の筆であり、無準師範の心が残っている。無準師範は東福寺開祖聖一国師の師匠である。入口の扁額「禅堂」は当山三百三世福島慶道管長の筆である。禅堂の大きさは桁行七間梁間四間、一重もこし付切妻造。本瓦葺であ。我が国最大最古の道場である。 |
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重要文化財の臥雲橋。 |
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臥雲橋から見た通天橋。
<東福寺三名橋>
広大な境内に北谷・中谷・南谷の三つの渓谷を巧みに取り入れている東福寺。通天橋からの眺めは中谷にあたり、ここに架かる三つの歩廊橋は上流から偃月橋(重文)、通天橋、臥雲橋。これを「東福寺三名橋」と呼ぶ。
<深夜の送り鐘>
毎夜11時45分頃から18回、開山堂・常楽庵鐘楼の鐘が鳴る。この深夜の鐘は、開山聖一国師以来の習慣。国師は同じ京都五山・建仁寺の住持でもあったため、東福寺でのお勤めがすめば建仁寺へ移動。このとき東福寺では「送り鐘」でお送りし、建仁寺では「迎え鐘」でお迎え。東福寺に750年欠かさず続く習慣です。
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<通天橋> |
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東福寺といえば紅葉と言われる。訪れたのは桜咲く頃。多くの人は桜の名所に行く。そのため、東福寺は人もまばらである。境内をゆっくり落ち着いて散策できた。 |