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<退耕庵>
臨済宗東福寺の塔頭寺院である。貞和2年(1346)東福寺第四三世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃したが、慶長4年(1599)安国寺恵瓊(えけい)によって再興された。
客殿は、再興時に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、客殿の中にあら茶室作夢軒で、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関ヶ原の戦いの謀議を行ったと伝えられている。
庭園は、書院をはさんで南北二庭からなり、南庭は美しい苔に覆われた枯山水庭園で、北庭は池泉式庭園となっている。
地蔵堂に安置する高さ2mの地蔵菩薩像は、体内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていたことから「玉章(たまずさ)地蔵」の名で知られている。
なお、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。国宝、重要文化財など多数あり。
<玉章地蔵尊>(たまづさ)
小野小町の作といわれる。高さは七尺で土を以て造られている。小町の美貌は、世の浮気男の心を悩亂し、遠近より贈る艶書は宛も降雨の如しといわれた。老後小町はこれらの愛執の罪を滅する様にと、自らこの像を建て、諸方よりの艶書を集めて像の腹中に納めたという。この故に「玉章地蔵」又は「ふみはり地蔵」ともいわれ広く除災与落の信仰をあつめたものである。
後に不心得者が腹中に艶書のある事を伝え聞いてこの像の後を破ったところ、腹内に長さ三尺許の石の五輪あり。慈眼大姉の銘あり。豊臣秀吉の北方政所の右筆、小野於津宇は小町の苗孫にあたる為、特にこの像を貴敬し破損の時は自らの手でこれを張り彩色をされたという。 |
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