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<泉涌寺>(せんにゅうじ)
真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室とのかかわりが深く、「御寺」(みでら)として親しまれている。
寺伝によれば、平安時代に弘法大師によって営まれた草庵を起こりとし、法輪寺(後に仙遊寺と改称)と名付けられた後、建保6年(1218)には宋(中国)から帰朝した月輪大師(がちりんだいし)・俊じょうに寄進され、大伽藍が整えられた。その際、境内に泉が湧き出たことにちなんで泉涌寺と改められた。仁治3年(1242)の四条天皇をはじめ、歴代の多くの天皇の葬儀が行われ、寺内に御陵が営まれており、皇室の香華院(菩提所)として厚い崇敬を受けてきた。
広い境内には、運慶の作と伝えられる釈迦仏、阿弥陀仏、弥勒仏の三世仏を安置する仏殿(重要文化財)のほか、釈尊の仏牙(歯)を祀る舎利殿、開山堂、御所の建物を移築した御座所、霊明殿など多くの伽藍が建ち並んでいる。
寺宝として月輪大師筆の「泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)」(国宝)、楊貴妃観音堂に安置される聖観音像(重要文化財)など、多数の貴重な文化財を所蔵する。また、謡曲「舎利」の舞台としても有名である。
山内の塔頭には七福神が祀られており、毎年成人の日に行われる七福神巡りは多くの参拝客で賑わう。
もろもろの悪をなすことなく
もろもろの善を実行し
自らその心を浄くすること
これがもろもろの仏陀の教えである (七仏通戒偈) |
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<仏殿>(重要文化財)
仏殿は寛文8年(1668)に徳川家綱により再建されたもので、一重もこし付入母屋造り本瓦葺、唐様建築の代表作である。内部の鏡天井には狩野探幽筆の蟠龍図が描かれ、三尊仏の後壁には同じく探幽筆の白衣観音像がある。
<舎利殿>(京都府指定文化財)
御所にあった御殿を寛永年間に改装再建したもので内陣の宝塔内に仏牙舎利を安置する。謡曲「舎利」の舞台として有名である。天井の狩野山雪筆の蟠龍図は、ひろく「鳴龍」として知られている。
<泉涌寺と謡曲「舎利」>
舎利殿には堂内に韋駄天立像があり、謡曲「舎利」では、足疾鬼が舎利殿に飛び上がり、舎利を奪って虚空に飛び去ったところ、この寺を守護する韋駄天が、これを追いつめ、仏舎利を取り返すという話になっている。「太平記」に載せられている説話にもとづいたもので、泉涌寺の仏舎利が天下に二つとない霊宝として尊崇を集めてきたことは古書にも記されているので、これらを素材につくられたのでしょう。 |
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<霊明殿>
現在の霊明殿は、明治17年(1884)に明治天皇により再建されたもので、入母屋造り檜皮葺き、外観は宸殿風である。内部は内陣・中陣。外陣に分かれており、特に内陣は五室の宮殿となっている。天智天皇以来の歴代天皇の尊牌が奉祀されている。
<月輪陵>
古くから皇室の香華院として知られ四条天皇の仁治3年(1242)、ここに月輪陵が設けられたのを初めとし、後水尾天皇から仁孝天皇に至るまでの天皇・皇后・親王等二十五陵五灰塚九御墓の後月輪陵が営まれている。
<楊貴妃観音堂>(重要文化財)
唐の玄宗皇帝の妃、楊太真は、楊貴妃の名で知られる絶世の美女であり、二人の愛情の深さは白楽天の「長恨歌」にたたえられている。しかし、その美貌のためにかえって、玄宗の失政と安禄山の乱を呼び、唐の至徳元年(756)、妃はその乱によって命を落とした。安禄山が討たれた後、皇帝玄宗は亡き妃の面影を偲ぶため、香木によってその等身座像にかたどった聖観音像を造ったと伝えられる。
建長7年(1255)に中国に渡った湛海は、その像を持ち帰り、泉涌寺に安置したという。以来百年ごとに開扉されてきた秘仏であったが、昭和31年(1956)から厨子の扉は参拝者のため開かれることになった。
仏体は寄木造で、手に極楽の花、宝相華を持ち、宝冠は宝相華唐草の透彫、その下に観音の冠を重ねている。観音の慈悲と楊貴妃の美貌が渾然一体となった仏像で、口もとや目もとの曲線は、得も言われぬ尊容を漂わせている。 |