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華蔵寺は、慶長5年(1600)吉良上野介義央の曾祖父である吉良義定が、妙心寺の高僧月船禅師を請じて、吉良家菩提寺として華蔵寺を開基する。
吉良氏は源家嫡流足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり吉良荘(現在の西尾市幡豆郡一帯)に住み、吉良を称した。室町時代には有力大名の一として、常に室町幕府を支えた。江戸時代には旗本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により断絶した。
当寺には、吉良家墓所 吉良義安から義央の継嗣義周まで吉良家6代(13代〜18代)の墓が残る。文化財として、吉良上野介義央木像 (愛知県指定文化財)義央50歳の姿を刻んだ木像で、自ら彩色したと伝えられる。江戸期南画の第一人者とされる池太雅の作品群、吉良家寄進の品等が残されている。経蔵は、義央が元禄13年に鉄眼一切経を納めるために寄進した。平成14年(2002)に修理が行われ、創建時の柿(こけら)葺きに復元された。
また、本堂裏の枯山水は、小堀遠州流といわれ、古来から有名である。毎年12月14日には毎歳忌が行われている。
吉良家墓所 |
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<尾崎士郎「吉良の男」より>
吉良上野介が、52歳になった元禄5年の春、飄然として領地に帰ってきた。着いたのは三月はじめの雨の日の夕方である。
大気はまだうすら寒かったが、華蔵寺には早くも春の気配がただよっていた。その夜、上野介は、天英和尚の点ずる茶を喫したあとで歌をつくった。
雨雲は今宵の空にかかれども
晴れゆくままに出づる月かげ
俗念に一つの区切りをつけた彼の心境は歌の中に、ゆるやかな思いをひそめている。これこそ、いかにも名君の心境であろう。上野介は、長旅の疲れでその夜は、ぐっすりと眠った。 |
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