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可睡斎(かすいさい)は、600年前(応永8年)、如仲天ァ(じょちゅうてんぎん)禅師によって開創された曹洞宗屈指の名刹です。
11代住職仙麟等膳(せんりんとうぜん)大和尚は、幼い徳川家康を戦乱から救ったことがあり、後に家康が、浜松城主となった折、報恩のために城に招かれた、その席で和尚はコックリコックリ居眠りを始めた。その姿を見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り、和尚に「睡(ねむ)る可(べ)し」(御前にて眠っても無礼でないとの意)と言い、「可睡和尚」と愛称せられ、寺号を東陽軒から可睡斎と改め、後に10万石の待遇と徳川幕府最初の僧録司という職を与えられた。 |
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<火防守護の総本山>
秋葉総本殿可睡斎にお祀りしてある秋葉三尺坊大権現様は、今から1300年の昔、越後蔵王権現堂の十二坊の一つである三尺坊という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩三十三化身の一つであります迦樓羅身を現じられた。かくして、秋葉三尺坊様は、衆生済度のため、失火延焼の難を逃すことを第一に、三大誓願をおこし火防の霊場を開かれた。
秋葉三尺坊大権現様の御真躰は、明治6年(1873)に秋葉山秋葉寺より遷座奉安され、以来秋葉三尺坊大権現鎮座火防霊場として、全国より信仰を集める祈祷の道場として、日々火防と人々の幸福を祈願している。 |
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<輪蔵>
輪蔵とは、仏教の法宝である経典(総称を「大蔵経」または「一切経」と称す)を収め置く、寺院建築においt古来より重要視されてきた堂宇であり、由緒名刹寺院には欠くことのできない大切なものです。
可睡斎の輪蔵は、平成18年(2006)の伽藍修復工事の一環で移築した際建築当時の棟札が出てきた。
棟札の記述によると輪蔵建築の発願者は、可睡斎四十八世日置黙仙禅師、後の大本山永平寺の第六十六世貫首猊下である。日置禅師の意志を受け継ぎ、大正8年(191)輪蔵を上棟したのは、可睡斎四十九世秋野孝道禅師、後の大本山総持寺独住七世貫首猊下である。
輪蔵を考案した傅大士(ふだいし・中国南北時代、斉の東陽の人、497〜569)は、明るい将来には、「大蔵経」に親しむにありとして、当時、文字を知らぬ人、修学する環境にない人々にも、広く仏教と縁を結ばせる為に輪蔵(八角の書架が中心にある軸で回転できるもの)を考案したと伝わる。
「輪蔵」を時計回しに一回転させると「大蔵経」を修学するのと同じ功徳を得られるとされ、経蔵に対する信仰が深まった。 |
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<山門>
禅宗寺院の七堂伽藍の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して3つ、あるいは参道に沿って3つ設けられたことからも三門または、山門と書かれた。また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。
また可睡斎の山門は、昭和10年(1935)に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼していたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年(2010)に落慶した。
金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。開口の阿形像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の二体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。
言語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕にし、吽形像は怒りを内に秘めた表情にするものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。 |