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<龍口寺>
鎌倉時代、日本は内乱や大震災・飢餓疫病の蔓延など、まさぬ地獄の様な状況にあり、それらを憂えた日蓮聖人は、『立正安国論』を著し幕府に奏上し,法華経の思想に基づく国家の安寧と民衆の救済を提起した。,
しかし、幕府はこれを政策への中傷と受け止め、『貞永式目』の「悪口の咎(とが)」に当たると解釈し、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉ヶ谷の草庵で説法中の日蓮聖人を捕らえ、市中引き回しの上、この龍ノ口の刑場に連行した。
日蓮聖人の場合、幕閣による評定(裁判)を経ず刑場に連行した為、幕閣からも異議が出され、処刑中止を求める意見が多く、幕府は夜半に至り龍ノ口の刑場へ処刑中止の使者を送った。
その間にも刑場では評定の決定を待ちかねて、13日子丑の刻(午前2時頃)、日蓮聖人を土牢から引き出し、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らせ、斬首の準備を調えた。
その瞬間、江ノ島の方より満月のような光りものが飛び来り、執行人は眼がくらみ、畏れおののき混乱の中、使者が到着し斬首の刑は中止となった。
その後、幕府の面目もあり、佐渡島へ3年間流罪となったが、この大法難によって日蓮聖人は「上行菩薩の再誕・法華経の行者」としての信念を一層深められ、その後、数々の重要な法門を著述した。
この霊場は、延元2年(1337)、直弟子の日法聖人が刑場跡に「敷皮堂」を建て、自作の祖師像を安置したのが始まりであり、大聖人自ら『龍ノ口に日蓮が命をとどめおくことは法華経の御故なれば、寂光土ともいうべきか』と獅子吼された隋一の霊場である。 |
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<刑場跡>
当地は鎌倉時代の刑場跡である。幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、龍ノ口に於いて斬首との記載が多く見られる。
奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・文覚が龍口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来した時は首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。これによって龍の口が処刑場になったと旧記にある。
文永8年(1272)9月13日子丑の刻(午前2時)、日蓮聖人は『立正安国論』の諫言により、
幕府に捕らえられ、この刑場・敷皮石(首の座)にすえられた。しかし、処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りもの飛び来りて、執行人共は眼がくらみ、この奇端の為、ついに大聖人の首を斬ることができなかった。
かくして此処は日蓮大聖人龍口法難の霊場であり、世の安寧の為に身命を賭けられた寂光土と称され所以である。 |
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<五重塔>
仏教の開祖であるお釈迦さまが亡くなられた時、その遺体は荼毘(火葬)に付され、その遺骨(仏舎利)は八つに分骨されて、その当時、インドで主流の八部族に渡された。そして、八つの部族は塔を建立し、それぞれに頂いた仏舎利を、その中に安置してお祀りした。
この塔のことを、古代インドの言葉である梵語(ぼんご・サンスクリット語)で「ストゥーバ)という。このストゥーバが五重塔の起源であり、法要で供養する卒塔婆の語源である。
五重塔は、この世と、また、私たち人間を形づくっている五つの要素である「地」、「水」、「火」、「風」、「空」の五大を意味する。
龍口寺の五重塔は、明治43年(1910)竣工、欅造り銅板葺き、神奈川県で唯一の木造本式五重塔である。初層の上部には彫刻師・一元安信の手になる日蓮大聖人御一代記が奉納されている。
「神奈川建築物百選」にも選定されている剛健優美な五重塔である。 |
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<仁王尊像>
仁王門の仁王尊像は彫刻家 村岡久作氏の作。
<山門>
山門は、元治元年(1864)竣工。欅造り銅版葺。正面に「龍口寺」、裏面に「寂光山」の扁額が掛かる。山門の彫刻は、中国の故事が細密に彫られており見応えがある。 |
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<鐘楼堂>
昭和44年(1989)、龍ノ口法難750年を記念し、中山法華経寺から移築された「延寿の鐘」。お題目を唱えれば、一人一回まで突くことができる。 |
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<本堂>
天保3年(1832)建立。欅造り銅版葺。敷皮石を安置することから「敷皮堂」とも称し、堂内正面にその扁額が掛かる。
<仁王門>
昭和48年(1973)竣工。鉄筋コンクリート造り瓦葺。 |