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古義真言宗。龍護山満福寺と号し、開山は行基(668〜749)と伝えられ、本尊は薬師如来像です。
1185年に平家を滅ぼし凱旋してきた源義経は兄・頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを止められたため、満福寺に逗留したとされる。その際、頼朝の勘気を鎮めるために弁慶によって書かれた腰越状の下書きがこの寺に残っている。
境内には「弁慶の手玉石」や、弁慶が腰掛けたとされる「弁慶の腰掛石」、腰越状を書くための墨をするために水を汲んだとされる「硯の池」などが残されている。 |
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<源義経と腰越>
鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官と称した。父は源義朝、母は常盤、源頼朝の異母兄弟にあたる。
治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄源範頼とともに源義仲を打ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇ノ浦に平氏を壊滅させた。
しかし、頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留、この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。
「平家物語」(巻十二 腰越)には次のように記されている。
さればにや、去んうる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。
その申し状に曰く、
源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を領け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)
(引用文献 新新潮日本古典集成 昭和56年) |
しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。
義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品にもなり、現在でも「判官もの」として親しまれている。
中世には鎌倉と京とを結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉ー大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。
詳細は鎌倉文学館(長谷1−5−2 TEL23-3911まで)
平成8年2月 鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館(現地案内版) |
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満福寺の門前を江ノ電が通る。 |
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