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覚園寺は、建保6年(1218)、二代執権・北条義時が、戌(いぬ)神将のお告げにより建てた薬師堂が前身です。その後九代執権・北条貞時が、元寇が再び起こらぬことを願い、戒律を中心とした四宗(真言・天台・禅・浄土)兼学道場に改めた。
本堂の薬師三尊座像と十二神将像は鎌倉屈指の尊像です。奥深い境内は静寂としていて、古都鎌倉の面影をよく残している。地蔵堂の黒地蔵尊の縁日(8月10日)には、多くの参拝者が訪れる。重要文化財等多数あり、境内は国の史跡に指定されている。
宗派:真言宗泉涌寺派 建立:永仁4年(1296) 開基:北条貞時 |
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<覚園寺周辺>
鎌倉宮の左手にあるバスの発着所を通りすぎ、狭い道を歩いていくと、谷戸がだんだん深くなり、十分ほどで覚園(かくおん)寺に着く。覚園寺の前身である大倉薬師堂があったことから、このあたりを薬師堂ヶ谷という。晩秋には黄葉や紅葉が、静かなたたずまいを見せる谷戸に彩りをそえる。この薬師堂ヶ谷のことを蒲原有明が記している。昭和2年(1927)に書かれたものなので、覚園寺の様子などは今とだいぶ違うが、この谷戸に住んだ頃の文章です。また、蒲原有明の家には、川端康成がしばらく住んでいた。
薬師堂谷と云ふは鎌倉二階堂のうちの一つの谷戸の名称ではあるが、二階堂に行って聞いてみても、この地名を知っている人は先ずあるまい。もとこの奥に薬師堂があって、それから出た谷戸の名であることは既に東鑑に見えている。その地に覚園寺が建立された時よりはずっと以前からのことである。覚園寺は維新後見る影もなく荒廃に帰して、漸く残された薬師堂も空しく塵埃に塗れている。その外には地蔵堂が小さく押黙っているだけである。それにしてもこの谷戸が由緒ある名称を失ったことは余りにも心寂しい。いつも二階堂の名に壓されたことがその原因の大部分であらうが、古い郷名でなくともその土地柄に相応した固有の名称があったなら、こうあっさりと忘れられてはしまはぬはずである。その上に薬師信仰の衰頽も数えられてもよいであらう。(「薬師堂谷記事」より「飛雲抄」) |
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