|
|
|
|
|
|
源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣・足利義兼が、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として建立した。退耕行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧です。
鎌倉五山第五位の由緒ある禅宗の寺で、室町時代は境内に23の塔頭を持つ大寺院だった。現在は総門、本堂、客殿、庫裡が残っている。本堂の奥にある鎌倉稲荷神社は鎌倉の地名の由来になったとされている。
宗派…臨済宗建長寺派 山号寺号…稲荷山浄妙寺 建立…文治4年(1188)
開山…退耕行勇 開基…足利義兼
<寺の略史>
当寺は稲荷山浄妙寺と号し、鎌倉五山第五位の寺格を持つ臨済宗建長寺派の古刹である。
源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治4年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。
開山は退耕行勇律師で、当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭溪道隆の弟子月峯了然が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。寺名を改称したのは正嘉年間(1257〜59)とみられる。
歴代の住持には約翁徳倹・高峰顕日・竺仙梵僊・天岸慧広など名僧が多い。中興開基は足利尊氏の父貞氏で、没後当寺に葬られた。至徳3年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭23院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡等で伽藍を形成している。境内は国指定史跡。
<開山略伝>
行勇律師(1163〜1241)は相模国酒匂(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房と称した。幼くして薙髪出家し、真言密教を学んだ。
養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治4年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済禅を修め、栄西没後は壽福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した。仁治2年7月、東勝寺で没した。 (説明文より) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
晩秋の浄妙寺。所々にある紅葉が静寂さを引き立てる。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
浄妙寺境内ある喜泉庵は、天正年間(1573〜1592)に建てられた茶室である。現在緒の茶室・喜泉庵(きせんあん)と枯山水の庭は平成3年(1991)に復元された。寺の奥には元貴族議員の洋館がある。 |
|
|
|
|
|
足利貞氏(尊氏の父)と伝えられる宝篋印塔がある。明徳3年(1392)の銘あり。歴史的には貞氏は1331年に亡くなっているので貞氏自身のものかどうか不明らしいが、貞氏は鎌倉における足利氏の菩提寺である浄妙寺を再興しており、足利氏廟所である光明院にあることから足利氏関連の供養塔であることは間違いないとのことである。 |