|
|
|
|
|
|
|
|
<石山寺>
聖武天皇の勅願により天平勝宝元年良辨僧正によって開基され、歴朝の尊崇あつい由緒ある寺院である。西国巡礼十三番の札所。本堂は縣下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀君の修補になるもの。本尊観音は勅封になっている。
堂内源氏の間は紫式部が「源氏物語」を書いたところと傳え、本堂下の御堂は蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と傳える蓮如鹿の子の小袖を安置している。
多宝塔は美しい均斉美をもった鎌倉期の建築であり、鐘楼、大門は共に鎌倉初期の建立になるものである。境内の奇岩はいわゆる石山の名の出た石で硅灰石からなり、天然記念物に指定されている。
<石山寺東大門>
東大門は、三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(やつあしもん)、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面の左右に仁王像を置くことから仁王門とも呼ばれている。
現存の門は鎌倉時代の初期、建久元年(1190) の建築で、桃山時代の慶長年間(1596〜1615) にかなり大規模な修理改造が加えられている。天井下の蟇股(かえるまた)や破風(はふ)の懸魚(げぎょ)などに桃山時代の特徴がよく現れている。しかしながら、やはり建物の建ちが低く、深い軒は古寺の大門としてふさわしい姿をしている。
明治40年(1907)8月に重要文化財に指定された。 |
|
|
|
|
|
<毘沙門堂>
正面三間、側面二間、一重、宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺、背面閼伽棚(はいめんあかだな)を含む。
毘沙門堂は、堂内に兜跋(とばつ)毘沙門天(重要文化財)・吉祥天・善膩師童子(ぜんにしどうじ)の三体を祀っている。
この建物は、兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝が施主となり建てたこと、大棟梁は大津の高橋六右衛門、治郎兵衛が大工は大阪の大西清兵衛が担当し、大阪で木材の加工や彫刻を行い、現地で組み立てたことなど造営方式がわかる点でも貴重です。
毘沙門堂は近世後期らしい華やかな建物で、実際は正方形の平面でありながら、間口三間に対して、奥行き二間とし、方間にはしない点や、須弥壇(しゅみだん)前の柱筋の中央間は組物上の通肘木(とおしひじき)を虹梁(こうりょう)型に加工しその中央に笈形(おいがた)付きの大瓶(たいへいづか)を載せ天井を受ける特殊な架構・意匠を用いるなど特色にあふれた優れた建築です。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<本堂>
石山寺本堂は、桁行七間、梁間四間、寄棟造の本堂と桁行九間、梁間四間、寄棟造で懸造(かけづくり)(舞台造)の礼堂と、その両棟を結ぶ相の間によって構成される総檜皮葺の建物です。
石山寺の建立は古く、本堂は天平宝字5〜6(761〜2)にかけて造東大寺司(ぞうとうだいじし)によって拡張されたことが正倉院文書に見える。その後、承暦2年(1078)に焼失し、永長元年(1096)に再建されたのが、現在の本堂で、天平宝字項のものとほぼ同じ規模をもつ滋賀県で最も古い建物です。礼堂と相の間は、慶長7年(1602)に淀君によって建て替えられた。
昭和27年(1952)に国宝に指定された。 |
|
|
|
<紫式部源氏の間>
紫式部源氏の間今を去る約千年の昔、寛弘元年八月十五夜、紫式部この部屋に参籠し前方の金勝山よりさし昇る中秋の名月が下の湖面に打たれ、構想の趣くまゝに筆を採られたのが有名な「源氏物語」である。それから此の部屋を「紫式部源氏の間」と申すようになった。 |
|
|
|
|
|
|
|
<三十八所権現社本殿>
本殿は、一間社、流造で、屋根は桧皮葺である。石山寺は桃山時代に大規模な伽藍整備がなされ、本殿の建立は本堂の礼堂と同じく慶長7年(1602)になる。
三方に刎(はね)高欄付の榑縁(くれえん)を廻らし、正面には木階七級と浜床を張る。部材の保存状態は良好で、内陣内部を素木(しらき)とし、外陣と外部は極彩色で彩られていたことがわかる。
三十八所権現社は、石山寺の鎮守として創建されており、真下に位置する蓮如堂は、元は三十八所権現社の拝殿として建立されたものです。
蓮如堂と合わせて、寺院における鎮守社本殿及び拝殿の構成や礼拝形態を伝える貴重な遺構として、平成20年(2008)国の重要文化財に指定された。 |
|
|
|
|
|
<多宝塔>
多宝塔は下層が方形、上層が円形の平面に宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根をのせた二重の塔です。石山寺多宝塔は建久5年(1194)に建立されたもので、多宝塔の中でも、最も優れて美しい姿をしており、下左右の広がりがきわめて美しく洗練され、均斉のよくとれた建築です。
また、内部の柱や天井の廻りなどの壁面には、仏像や草花などの極彩色の絵が描かれている。昭和26年(1951)に国宝に指定された。 |
|
|
|
|
|
<鐘楼>
この鐘楼は桁行三間、梁間二間、重層で袴腰を付け、屋根は入母屋造、檜皮葺となっている。昭和28年(1953)からの解体修理によってかなり復元され、袴腰は白漆喰壁に、棟は短くなって全体につりあいのとれた美しい姿となった。
縁下と上層の軒下には三手先木組(みてさききぐみ)をもっているが、とくに斜めにでる尾垂木(おたるき)のないのは、珍しい特徴です。
源頼朝の寄進と伝えられている、様式や木材の風触から、鎌倉時代後期のものと考えられてる。明治40年(1907)8月に重要文化財に指定された。 |
|
|
|
|
|
<蓮如堂>
懸造(かけづくり)、桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、妻入、桟瓦葺
蓮如堂は、寺蔵文書から淀殿による慶長期の境内復興の際に、三十八所権現社本殿(県指定)の拝殿として建築された建物です。
明治以降、蓮如上人六歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていることから蓮如堂と呼ばれている。
建物は、寺蔵文書や東妻破風板の墨書などから慶長7年の建築で、その後、文化8年(1811)に桟瓦葺に改造されている。この建物は、文書から神事のほか、仏事にも使用されていた非常にまれな建物です。
懸造で妻入りとし、入口に対向する妻面を閉鎖的に扱い、さらに鎮守側の北側一間通りを広縁とする礼拝空間を構成するなど、独特の平面構成を持つ建築として、寺院における鎮守拝殿の一類型として、建築史上からも極めて貴重な建築です。 |
|
|
|
<御影堂>
本堂の東方にあるこの御影堂は、室町時代の建立で、正面三間、側面三間、宝形造(ほうぎょうづくり、桧皮葺で、背面に一間の張出しを設ける。
堂内は中央間後方一間を板壁で囲って内陣とし、内部の須弥壇(しゅみだん)には、弘法大師・良弁(ろうべん)、淳祐の遺影(御影)を安置している。
建立当初は、中央一間に須弥壇を置く形式だったが、慶長期に堂全体の修理が行われ、江戸中期に虹梁を加え後方を内陣とする改造がなされた。柱は全て円柱とし、外観は正面及び両側面の中央を板塀とし、半蔀(はじとみ)を吊って、障子ををたてる。
室町時代の軸部を残し、慶長期の洗練された外観をもつ建築として、平成20年(2008)12月、国の重要文化財に指定された。 |
|
|
|
|
|
|
|
<硅灰石>
硅灰石(けいかいせき)は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となるが、この石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは珍しいものです。
石山寺の硅灰石は、20o大の短い柱状の結晶となったものや、5o大のものが50o大に集合したものがあって、表面は淡黄色あるいは淡褐色をしている。しかし、新鮮なものは純白色をしている。
また、この硅灰石のほか大理石、ベーブ石、石灰岩からなる大岩塊は褶曲のありさまが明らかにわかるものとして貴重なのもであり、石山寺の「石山」の起りとなったものです。大正13年3月に国の天然記念物に指定された。 |