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<釈迦山 百済寺>
聖徳太子の御願によって創建されたと伝えられている。 白鳳期と推定される布目の瓦の破片が出土していることからすでにこの時代に瓦を用いた寺院が建築されていたことが推定され、愛知郡誌によると近江国最古の寺院である。
天台宗となったのは後のことである。東寺勧智院年代記に天養元年(1144)百済寺天台別院と号すと書かれており、源平盛衰記に寿永2年(1183)木曽義仲に百済寺より500石の兵米を送ると記されている。
室町時代明応7年に自火によって本堂付近を焼失し、古記録などの焼失によって寺歴を物語るものがなくなっている。
その後文亀3年の兵火、天正元年信長の焼き討ちにより更に衰徴し、現本堂は慶安3年の建立である。(現地案内文参照) |
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<国史跡 百済寺の概歴>
百済寺は、606年に聖徳太子と渡来僧恵慈により「百済人」のために創建され、当時の先進国家である「百済国」の国名を日本で初めて寺院名に冠した貴重かつ希少な名刹です。
本尊の秘仏十一面観音(3.2m)は、古来より「植木観音」と呼ばれ、百済国「龍雲寺」の本尊とは「同木二体」で日韓両国交流の原点・象徴であった。
しかし、残念なことに660年の百済の滅亡とともに龍雲寺も焼滅し、日本側の植木観音のみが両国関係の命脈を辛うじて維持してきた。
この「植木」には、深い意味が込められている。
一つには聖徳太子が根の着いたままの杉の巨木に観音像を彫られたこと。二つには百済からの先進文化・技術・諸制度・仏典等がほぼ移植し終わったことです。
一方、百済寺の位置は北緯35.1度線上にあり、その西に向かっては太郎坊…比叡山…次郎坊(鞍馬山)を経て880qの彼方には渡来人の母国百済があり、その東に向かっては、熱田神宮が控えている。
この配置関係は日本に暦を伝えた僧観勒(天文・地理・方位術の大家)が百済寺に数年間在寺したことからも必然の配置といえよう。 |
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<最後の山城の偉容>
前方の石垣遺構は城砦化された「百済寺城」の一部です。小石を積み上げた石垣であったため、信長も安土への「石曳」をせず、破壊されずに残った。
安土城の礎石の一部は、信長百済寺城の石垣(湖東流紋岩)を引き抜いて築城したものです。石曳の道を経由して搬出された。 |
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<喜見院の庭園>別称「天下遠望の名園」
百済寺一山、本坊の喜見院は、もと千手坊と称していたが、寛永11年(1634)山門三院執行探題大僧正天海の高弟、・亮算が千手坊仙重の後任として入寺するや、千手坊を喜見院と改めた。
その後、元文元年、喜見院は自火により焼し、元文2年、仁王門の側に移転改築された。現在の建物は、昭和15年(1940)、仁王門側よりに再度移転改築されたもので、これに伴い庭園も拡大移築したものである。
池泉廻遊式且つ鑑賞式で旧庭園と同様に、山上眺望の見事なパノラマ庭園です。
東方の山々を借景とし、その山林から自然に開けた山水で、庭石は旧庭園のものを移し、更に山内の谷川から運んだ巨石を組み合わせて作庭されたもので、書院正面中央の池畔に置かれた平な石を「拝石」とし、その正面の渓流の源に見える巨石が「不動石」である。東の山の谷水が、この石間から流れ出て渓流となり、池に落ちて池畔の巨石や山影を写し、この池泉を廻って歩を運び、高台の「遠望台」に達すると、湖東の平野が眼下に展開し、西方55qには「比叡の御山」に連なる湖西の山並みを眺望でき、さらに西方880q先には、渡来人の母国「百済国」を偲ぶことが出来る。 |
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<仁王門と大草鞋(わらじ)>
仁王門と大草鞋は、百済寺のシンボルの一つです。作家の五木寛之さんが「百寺巡礼」の第35番目に百済寺を参拝した時に、年齢と体力の点で65寺院の巡拝・訪問を大変心配して、この大草鞋に「満願成就」の願掛けをされて行かれた。その御利益あってか1年半後に見事、百寺満願を達成された。
以来、この仁王門は全国的に有名になり、参拝の方々が通門時に必ず大草鞋に触れて行く慣わしになった。その後、五木さんは韓国、中国、インド、チベット、ネパール等の寺院を次々と踏破・巡拝される活躍・健脚ぶりです。 |
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戦国時代に入って宣教師ルイス・フロイスにより「地上の天国一千坊」と絶賛された百済寺は、1573年に織田信長の焼討に遭い壊滅的打撃を受けたが、江戸期に再建された本堂(重文)を中心に、石垣で覆われた中核部の境内地(81ヘクタール)は国史跡に、「天下遠望の庭園」は「日本の名園百選」に、秘仏植木観音は「NHKにっぽん心の仏像百選」に、秋の光景は「日本紅葉百選」に指定され、四季を通じて別名「美の百彩寺」と称えられている。 |