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<本興寺の歴史>
当寺は常霊山本興寺と称し、永徳3年(1383)、越後本成寺の日陣聖人が東海地方巡教の途次、真言宗薬師堂住持を教化し、寺を法華宗に改め住僧の日乗聖人を開山とされた寺である。
戦国時代には今川氏をはじめ多くの豪族の外護をうけ、なかでも文明年間、当山五世日暹聖人は傑出し三河国西ノ郡(現愛知県蒲郡市)の城主鵜殿氏をはじめ三河・遠江を擁していた西郷氏や多米氏、飯尾氏なども同聖人に帰依し、以来東海地方における布教の拠点としての地位を占めるに至った。
江戸時代には徳川家康から御朱印地をうけ十万石の格式をもって遇され、葵の紋の使用を許された。その他老中久世氏を始め幕閣の外護も当寺の発展に大いに寄与した。
寺域二万六千坪余、三方を山に囲まれ春は桜,、みやまつつじ、秋はもみじとと四季折々趣があり、国の重要文化財の本堂を始め惣門、客殿、大書院、及び大小の堂宇が木立の中にあり、多くの国・県・市指定の貴重な文化財を保有している。
法華宗陣門流別院。山内塔頭寺院四ケ寺。 |
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<本興寺山門>(上左画像)
元三州吉田城の城門であったが、延宝2年(1674)に当山へ寄進されたものと思われる。形式は高麗門である。移築前は、段葺屋根の重厚な門であったが、移築時に柿葺屋根に改修したものと思われる。現在の瓦葺屋根に改修されたのは、鬼瓦の銘などより享保10年(1725)と思われる。また、創建時の段葺屋根は現在も瓦葺屋根の下に保存されている。
<中門>(上右画像)
本興寺大書院の本玄関に通ずる中門は、別名朱門ともいう。形式は薬医門である。二本の本柱を棟から少し外側に立て、やや下げて内側に控柱二本を立てる。
屋根の重さを本柱と控柱が分け合って負担を軽くする形で、安定感のある門の形式といえる。薬医とは「矢喰い(やくい)」の当て字で、薬医門とは元来桃山時代の創始にかかる城門の一形式であったが、江戸時代には寺院にも多く用いられた。
本興寺中門創建の棟札の類は発見されない。正徳元年(1711)と寺伝にいう。17世紀末から18世紀にかけて、中央幕閣からの保護下に栄えた当山の歴史を物語る記念物である。本瓦葺、笈形付斗束、大佛様木鼻に特色がある。
夕早き庫裏のはひりは日たむろと
築地めぐらして朱き中門 北原白秋 |
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<客殿>
寛永14年(1637)、13世日渕聖人が建立する。安永2年(1773)再建される。比較的古式な客殿であるが、18世紀後半以後のもの推定され、江戸時代の特徴をよく示している。
桁行十間、梁間八間、寄棟造、函棟付茅葺で、前面に桟瓦葺の向拝がつき、側面に濡縁がつく。 |
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<千仏堂>(上左画像)
元禄13年(1700)、渡辺越中守夫人の発願により建立されたもので、千体仏を安置する。宝(方)形造りの屋根を持つ建築である。蟇股(かえるまた)を除けば純然たる唐様式である。小さい建物ながらよくまとまった上品な風格を持っている。
<鐘楼堂>(上右画像)
延宝2年(1674)、松平山城守重治夫人の発願で建立。大正4年(1915)修復。 |
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大書院と客殿を結ぶ回廊 |
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<奥書院>
豊橋市の吉田城内にあったもので、延宝2年(1674)、惣門(山門)とともに当山に寄進されたものといわれている。
構造は、木造平屋建一部せがい寄棟造茅葺、主屋に桟瓦葺の縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではないが、使われている材料や技法と相まって江戸初期の建築様式を示す建物です。 |
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奥書院から小堀遠州作の庭園を眺める。 |
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<遠州流庭園>
慶長14年頃(1609)小堀遠江守政一の作。この庭園は大書院から奥書院に面し楕円形の池泉をかかえ、背後の自然の山林を借景に深山幽谷の趣を呈し、木石の配置も巧妙で、いずれの方角から見ても美しい。蓬莱式池泉鑑賞式庭園である。その閑静なたたづまいは、歌人北原白秋の歌にも詠まれている。
水の音 たぞにひとつぞ 聞こえける
そのほかはなにも 申すことなし |
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