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高龍寺は、寛永10年(1633)松前の曹洞宗法源寺の末寺として亀田村(現在の市内万代町辺り)に建てられたことに始まる市内で最も古い寺院である。
その後、洪水による被害などで亀田が衰退したため、宝永3年(1706)箱館の弁天町(現在の入船町)に移転した。箱館開港当初には実行寺とともにロシア領事館一行の止宿所となり、明治2年(1869)の箱館戦争時には箱館病院の分院として負傷者を受け入れた。
幾度か大火で建物を焼失したが、明治12年(1879)この地に移転し、明治33年(1900)には現在の本堂が完成、同43年(1910)に完成した山門は彫刻が見事である。いずれも越後出身の名工たちの作で、明治時代末期の貴重な木造寺院である。
函館山を斜景とした日本庭園には、芭蕉の句碑(鼠塚)もあり、墓地には勝海舟と親好があった渋田利右衛門や、日本最初に種痘を行った中川五郎治など著名な人の墓がある。
また、松前藩家老で、人物花鳥にすぐれた画家であった蛎崎波響の最高傑作「釈迦涅槃図」(北海道指定有形文化財)を所蔵している。 |
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<傷心惨目>
明治2年(1869)5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。
明治12年(1879)高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を立て、斬殺された藩士を供養した。
碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。
<蟹工船遭難者の墓>
墓地に陽を浴びた蟹工船遭難者の墓があった。
<横山松三郎の墓>写真術の先覚者
幕末、明治初期の日本の写真術創世記に東京で活躍した写真師。ステレオ写真装置を創作。明治3年(1870)に日光東照宮などを同機で撮影、同9年に陸軍士官学校教官となり写真術を教えた。同10年気球から日本初の”航空撮影”をしたり、永久不変色、写真油絵、写真石版など技術開発に業績を残した。
エトロフで生まれ、函館に移り住み、来港したロシア軍艦の絵師に洋画法を学び、その先覚者としても有名。東京泉岳寺の山門脇に墓碣銘があり当寺に墓がある。北洋漁場を開いた高田屋とは親類。 |
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