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清瀧寺は、京都地恩院の末寺、本尊は阿弥陀如来。天正7年(1579)9月15日岡崎次郎三郎信康(徳川家嫡男)が二俣城において生害(自害)。時に21歳。遺骸を当寺に葬り、法名を騰雲院殿前三州達岩善通大禅定門という。
天正9年徳川家康は、当寺に来臨し、清水の湧き出るのを見て、寺名を清瀧寺と名付け、信康に清瀧寺殿と諡(おくり名)をした。
ここは信康の他に殉死した吉良於初、当時の二俣城主大久保忠世、三方原で討死した中根平左衛門正照、青木又四郎吉継らの墓もある。
<本田宗一郎ゆかりの地>
徳川信康の菩提寺「清瀧寺」、この信康ゆかりの寺で、二俣尋常高等小学校時代の宗一郎少年は、正午を知らせる鐘を30分前に突き、まんまと弁当を早く食べたといわれていtる。 |
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天正7年(1579)9月15日岡崎次郎三郎信康が信長の口難に逢い二俣城において自刃した。この時浜松へ二俣村役人共が呼び出され、二俣には浄土宗の寺院何ヶ寺あり寺の名は何というか書き出せと仰渡しがあった。
ところが浄土宗の寺は一ヶ寺もないという、それでは庵室でもよいからという次第で、庵室のあったこの地に信康の廟所、位牌堂、其外諸堂を建立した。
<井戸櫓>
大久保彦左衛門(忠教)の三河物語によると、元亀3年(1572)10月、武田軍は徳川方の二俣城を攻撃したが、城兵は小勢ながら天険を利用してよく防いだ。武田軍は城兵が天竜川の崖に櫓を造り、滑車に縄をかける釣瓶で水を汲んでいることを探知し、水の手を奪う戦法にでた。
井戸櫓は二俣城が廃城ののちに清瀧寺へ移築されたという。その後明治年間に改築されており、現在のものは昭和37年(1962)に再建されたものです。 |
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