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<龍潭寺庭園>
庭園は、本堂の裏にあり、左右に細長くのびている。池の後に築山が広がる。池は心の字を形どった「心字池」である。小堀遠州流の作庭、国指定文化財名勝記念物。 |
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<正夢の稲荷>
江戸時代中頃、当山9世祖山和尚の夢枕に稲荷大明神が立った。
「われは昔よりこの山に住む稲荷である。祠がこわれて今住むところがなく困っている。ここに金三両を置く。われのために新しい祠を建ててくれ。」と和尚に告げた。
翌朝、和尚が枕元を見ると、夢のお告げの通り黄金三両が置かれてあった。和尚は早速新しい祠を造り、稲荷大明神を寺の鎮守様として大切に祀った。
それ以来「夢をかなえてくださる正夢稲荷」として信仰され今日に到っている。
「稲荷」は五穀豊作の神です。インドの神、ダキニテン(善人を守る神)と五穀豊作の神が一つになった神です。キツネはその神の使いといわれる。 |
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開山堂。元禄15年(1702)建立。 |
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<御霊屋>
井伊家霊殿。寛保2年(1742)建立。堂内には、元祖の共保(右)、22代直盛(中)、24代直政(左)の木像が安置されている。井伊直弼の位牌も祀られている。
井伊谷(いいのや)を本拠地としてきた井伊氏は、平安時代より戦国時代まで、遠江の代表的国人領主として西遠地方(静岡県西部地方)を治めてきた。井伊介を名乗り鎌倉幕府に仕え、南朝方の皇子宗良親王を迎え、北朝軍と戦った。室町時代、遠江に侵攻した今川軍との戦いに敗れ、その支配下に入った。
戦国時代の永禄3年、22代井伊直盛が桶狭間で戦死、永禄5年には、23代直親が今川の手で殺される。龍潭寺二世南渓和尚はこの井伊家の危機に、直盛の一人娘井伊直虎(次郎法師)を女性地頭(女領主)に立て、幼い24代井伊直政の後見人とした。
永禄11年に徳川家康が、元亀3年には武田信玄が井伊領に侵攻(三方原合戦)する。南渓和尚と井伊直虎、遺児直政を三河鳳来寺にかくまい、天正3年、15歳に成長した直政を浜松城で家康に出仕させる。直政は「赤備え」軍団を率い武勲をたて、徳川軍団筆頭に出生し見事井伊家を再興し、江州佐和山(彦根)に移った。
井伊家は江戸時代を通して江戸幕府を支え、幕末には大老井伊直弼が開国・攘夷の渦巻くなか開国を決断し、日本の近代国家誕生の基を築いた、
この御霊屋には、井伊家千年にわたる祖霊を祀っている。 |
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<子育て地蔵> -虎松の無事成長祈願仏-
戦国末期徳川軍団筆頭となり。彦根18万石城主に出世した井伊直政は、幼名を虎松といった。虎松は幼少の頃、井伊谷(いいのや)で実に苦難の道をたどる。
永禄5年(1562)虎松2歳の時、父直親は今川氏真の手により、掛川城下で殺される。虎松も殺す命令が出るが、家老新野佐馬助の助命嘆願で救われた。この事件以後、井伊氏は存亡の危機を迎える。
永禄6年20代直平出陣の途中急死、翌年井伊城代家老中野信濃守が引馬城攻めで戦死する。そしてついに永禄11年(1568)秋、虎松8歳の時、井伊領を家老小野但馬が横領する。
この時期虎松母子は、祖母・叔母に保護され龍潭寺内松岳院に身を寄せていた。直政の母お地蔵さまを造り、密かに境内に祀り、その傍らに神木「梛(なぎ)」を植え、我が子の安泰を日々念じていた。
永禄11年12月徳川家康が侵攻、井伊領を占拠する。危機を察知、南渓和尚は虎松を鳳来寺に預ける。無事にたくましく成長した虎松は天正3年(1575)15歳で家康に出仕、見事に井伊家を再興した。 |
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<龍潭寺 梛の木>
井伊家24代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃、井伊家の安泰を念じて植えられた神木です。
1560年(永禄年間)当時の井伊家は、22代直盛の戦死、23代直親が誅殺され、家老小野但馬の謀反など受難の時期だった。直政母子は龍潭寺松岳院に身を寄せ、お地蔵さまを祀りその傍らに「梛の木」を植えて我が子の安泰を日々念じたといわれる。
「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるともいわれている。
・樹種:いぬまき科の常緑高木
・樹齢:400年(推定)
・樹高:19m
・幹周:2.67m(直径85p) |
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東門は、旧鐘楼堂で一番古い建物(1631)です。 |
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井伊氏歴代の墓。
井伊直虎(次郎法師)は、井伊家22代当主・直盛の一人娘。
直盛には男子がなく、早くより従兄弟の井伊直親を許婚として家督を継がせる予定であった。ところが天文13年(1544)直親の父・直満が今川義元に殺され、自身も命を狙われたため直親は信州市田(長野県高森町)生源寺に身を隠した。
直虎は悲観し、龍潭寺で出家し次郎法師を名乗る。弘治元年(1555)、直親は井伊谷に戻り、直盛の養子となり奥山朝利の娘と結婚。
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで直虎の父・直盛戦死。井伊家の家臣多数死亡し大きな損失を被る。
永禄4年(1561)、2月井伊直政(虎松)誕生。家督を継いだ23代直親、岡崎の松平元康(家康)と反今川で内通する。
永禄5年(1562)、直親が掛川城下で今川の手で謀殺されると井伊家は存続の危機に。翌年、20代直平死去。翌々年、城代家老中野信濃守引馬城攻めで戦死。井伊の名を継ぐ男子は、4歳の遺児虎松(24代直政)ただ一人となる。
永禄8年(1565)、龍潭寺南渓和尚の計らいで次郎法師を後見人として井伊直虎と名乗り、女領主となり井伊家を支えた。
井伊谷徳政令の難題に対し優れた政治手腕を発揮した。直虎は歴代当主に記名はないが受難の井伊家を支え見事にお家を再興した、直虎は後世に語り継がれるおんな城主である。
鳳来寺に身を隠していた直政を天正3年(1575)浜松城主家康に仕えさせ、出世を見届けた直虎は、天正10年(1582)激動の人生に幕を閉じる。墓は龍潭寺境内、直親の隣りに眠る。(龍潭寺説明文より)
・父 井伊家22代井伊直盛
・母 新野佐馬助親矩(ちかのり) 妹(祐椿尼・松岳院) |