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<臨済宗妙心寺派 萬松山 龍潭寺>
井伊氏は平安時代より戦国時代まで六百年間、井伊谷(いいのや)を中心に遠州地方を治めてきた国人領主です。24代井伊直政が彦根に移り、今日まで千年を数える。龍潭寺(りょうたんじ)は井伊家歴代の霊を祀る菩提寺です。
また当寺には山北朝時代、井伊城で北朝軍と戦った後醍醐天皇の皇子・宗良親王(むねながしんのう)を祀っている。
・本尊 虚空蔵大菩薩(秘仏)
。前立 釈迦如来三尊佛 |
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上左画像は鶯張りの床。上右画像は、鶯張りの床から見える「補陀落(ふだらく)の庭」。「補陀落」はインドの南端にある観音霊場です。それに因み、この庭園を「補陀落の庭」と称している。白砂が五本の指のように見えるところから、浜名湖の庭として親しまれている。 |
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<丈六の釈迦牟尼佛> (上左画像)
この仏像は遠州地方第一の大仏。丈六とは一尺六寸(約5m)の寸法を言うが、座っているので3mほどの高さです。享保14年(1729)雲長作の寄木造り釈迦牟尼座像です。静かに己の心を深く見つめておられる座禅の姿の仏像。
この仏像の体には黒い落書きの跡が付いている。明治初年に起こった廃仏毀釈の動乱の傷跡です。近所の子どもたちがこの仏に登り、金箔をこすった跡です、廃仏毀釈という歴史の生き証人といえる仏像です。
上右画像は、江戸初期の龍虎の襖絵。 |
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<ほほえみ観音菩薩像> (上左画像)
江戸時代初めの頃の話です。近江国・琵琶湖で投網をしていた漁師が湖底より次々と三体の仏像を引き上げた。それはそれは尊い顔をした観音菩薩像だった。びっくりした漁師はすぐに領主である彦根の殿様へ差し出した。お殿様は傷んだ仏像を修理させ、井伊家の菩提寺に寄進された。その一体がこの十一面観音菩薩像です。
話は戦国時代にさかのぼる。元亀2年(1571)9月、織田信長は比叡山を攻め、湖畔の寺もことごとく焼き払った。火を付けられた寺では、ご本尊様を湖水に沈め火災より守った。そうした仏像の中には、引き上げられることもなく、湖底に眠ったまま江戸時代にいたった仏像があったのです。
この十一面観音像は、火難・水難にあいながら、奇跡的に再びこの世に出現された。仏像の口もとにかすかな笑みが現れている。モナリザの微笑を連想させる神秘的な微笑みです。
<宗良親王の位牌> (上右画像)
龍潭寺は南朝、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺です。興国元年(1340)正月、親王は井伊軍の砦、三岳城に立てこもり、これを攻める北朝軍と激突する。
三岳城は落城し、親王は駿河・越後・信州の各地を転々とし、信濃の大河原の山奥で30年余り世を避け過ごした。晩年は井伊谷に戻られ余生を送り、元中2年(1385)8月10日、72歳で逝去された。
法名を「冷湛寺殿」(れいたんじでん)と申し、寺名も一次冷湛寺と称したと伝えられている。祀られている位牌は井伊大老直弼が寄進されたものです。 |
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上左画像は、井伊家の駕籠。上右画像は平成23年(2011)の本堂修復記念の鬼瓦。(大正時代の本堂の瓦) |
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井伊氏歴代の墓。
龍潭寺の歴史は古く、奈良時代行基菩薩開創と寺伝にある。龍潭寺のある井伊谷は、古く「井の国」と言われ「井の国の大王」が治めた土地である。
平安時代井伊氏の元祖井伊共保が生まれ、井伊氏は遠江の有力武士として、すでに保元物語にその名を連ねている。鎌倉時代、源頼朝に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇皇子・宗良親王を井伊城に迎え北朝軍と戦った名門である。
室町時代20代井伊直平に帰依された黙宗瑞淵禅師が新たに龍潭寺の開山となり、遠州地方に京都妙心寺の流れをくむ臨済宗を広め、臨済宗妙心寺派の法灯を伝えている。
24代井伊直政は徳川家康に仕え、井伊の赤鬼と恐れられる活躍をした。この直政を後見人として養育したのが、22代井伊直盛の一人娘井伊直虎である。龍潭寺二世南渓和尚の計らいで女城主として井伊家を支え、お家断絶の危機から救った。後に直政は徳川四天王の筆頭に出世、関ヶ原合戦の後、彦根に移る。
幕末、大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げる。龍潭寺はその千年余り、40代の祖霊を祀る井伊氏の菩提寺として、彦根龍潭寺と共に、その歴史を今日に伝えている。 |