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方広寺は末寺170ヵ寺を擁する臨済宗方広寺派の大本山で、井伊家の一族・奥山六郎次郎朝藤(是榮居士)が後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師を開山と仰ぎ、建徳2年(1371)の建立した寺。寺名を深奥山方広寺(方廣寺)というのは、開山禅師が悟後の修行をされた中国の天台山にこの地形が似ていたので、そう付けられた。
開山・無文元選禅師が在世のころは常に五百人の修行僧が参禅弁道していたと寺史に誌されてあり、妙心寺第四代の長老・日峯宗舜禅師もここで開山様について修行の末に見性(最初の悟り)したと記録をとどめている。境内にまつる五百羅漢はその姿を象徴したものである。
鎮守の”半僧坊大権現”や”椎河龍王”はいずれも開山の遺徳にまつわる縁起によるもので、当山の管長が金糸菊花紋章入りの袈裟を着用するのは開山(皇子禅師)の後継者たる格式による。
開山が中国各地を参拝して帰国される海上で難破の危機に遇い、半僧坊の力によって海難を免れたという故事に因んで厄除、商売繁盛をはじめ諸願成就の祈願所として全国各地から多くの人々が参詣する。60ヘクタールの境内には、本堂、半僧坊真殿、三重の塔など60余棟の伽藍を擁する古刹です。 |
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<本堂>
建徳2年(1371)に建てられた本堂は、数度の山火事による類焼をうけ、現在の本堂は明治38年(1905)長山虎壑管長の発願により大正4年(1915)に完成した。
本尊釈迦如来、脇侍に文殊・普賢の二菩薩が安置されており、正平9年(1354)に仏師「法橋院遵」「法眼院廣」「法印院吉」の3人によって彫刻された木像で、元禄の頃水戸の徳川光圀(黄門)の命により修繕したと背面に誌されている。もとは茨城郡古内村の清音寺に祀られていたものを明治末に当山に移したと誌されている。
西側の”勅使玄関”は、当山が皇室ゆかりの寺ゆえに、しばしば勅使の参向を受けており、その際、勅使が出入りした玄関である。平成22年(2010)8月、百年ぶりの大改修工事と耐震工事を行った。 |
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<山門>
朱塗りの山門は、足利紫山老師の代に再建されたもので、地形に合わせて小ぶりに造られている。正式には「空」(くう)「無相」(むそう)「無作」(むさ)の三解脱を標幟するので三門という。
正面の掲額は高松宮宣仁親王の筆、裏の古雲関の額は、足利紫山老師の書かれたものである。 |
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<境内> |
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<半僧坊大権現>
正平5年(1350)中国天台山での修行を終えられた開山は、正法の禅を伝えるため明州を船出、帰国の途についたが、途中東シナ海に大暴風雨がおこり、乗船はいまにも難破しそうになった。
このとき、眼光炯々(けいけい)たる一偉人が船首に出現し「われ、この船を守り、禅師を護り奉って必ず故国にお届けつかまつらん」といって船師を指揮し、無事に博多の港に着けた。
後に開山が、この方広寺を創かれたときまた先の偉人が現れ「お弟子にして頂きたい」と懇願、開山が「汝はそのままで半ば僧である。あえて剃髪するに及ばず」とのお許しを得て開山に仕え、末永く当山の鎮守として方広寺を守護されている。それが半僧坊大権現です。毎年10月に御大祭が行われている。 |
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<勅使門・開山堂>
勅使門の奥に開山堂が建っている・開山無文元選禅師は後醍醐天皇の皇子で延元4年(1339)に天皇が吉野で亡くなるや、翌年、京都建仁寺の普光庵で剃髪、出家し雪村友梅禅師について修行され、さらに3年後に中国に渡り、建寧府高仰山大覚寺の古梅正友禅師のもとで7年間、大変な修行をされて、遂にその印記(印可証明と大戒をうけ正平5年(1350)に帰国した。
開山はその後、京都・鎌倉をはじめ各地を行脚、僧俗を接化され、建徳2年(1371)奥山是榮居士の請を容れてこの寺の開山となった。開山は、元中7年(1390)閏3月22日、当山で示寂(逝去)された。
開山の廟を黙霊塔といい、宮内庁の記録に”無文元選王廟”と記されている。光格天皇から”大慈普應禅師”、明治天皇から”聖鑑国師、昭和天皇から”圓明大師”とそれぞれ勅諡されている。
現在の開山堂は昭和10年(1935)、足利紫山老師が建立したももで、それまでの假開山堂は、いま禅堂として建てかえられ、雲水たちの修行の場になっている。
開山堂真殿の登り口には「昇り龍」と「降り龍」の彫刻がある。 |
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<方広寺七尊菩薩堂>
応永8年(1401)建立の棟札を有するこの堂は、県下最古の木造建造物である。七尊の名が示すように富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神の七神を合わせて祀る鎮守堂である。柿葺(こけらぶき)の一間社流れ造りは優美で鎌倉末期の建築様式を今に伝えている。国指定重要文化財。 |
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<三重の塔>
京都の篤志家山口玄洞氏が寄付、建立したものである。山口氏は大阪でラシャ問屋を営んでいて、第一次世界大戦中に財をなしたが、当時の管長英宗老師の忠告で好景気のうちに商売を手控え、停戦と共にあちこちで倒産者相次ぐなかに独り難を免れ、その後も社業は発展したという。
そうした故事から、この三重の塔「倒産よけの塔」として、全国の財界人がよくお参りにきている。 |
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<半僧杉>
当地方第一の老杉で、根廻り7.55m、目通り5.75m、樹高43m、枝張り19mで樹勢は良好である。
明治14年(1881)、三河地方から発生した山火事の折り、ときの住持東明禅師は燃え来たる大火の中で半僧坊神殿に籠り一心に祈願、渦巻く黒煙の中に何処よりともなく鈴の音が鳴り響き、師は柱杖を持って燃え盛る火炎を左右に切りさばく半僧坊の姿を拝した。やがて火事は治まったが、そこには一本の緑ひときわ濃い大杉がそびえていた。この大火に中で、明治11年(1878)8月に再建されたばかりの半僧坊と七尊菩薩堂とこの大杉だけが不思議に焼け残り、以来この杉は方広寺の御神木すなわち”半僧杉”として今日に語り継がれている。 |
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<五百羅漢>
羅漢さんは正式には阿羅漢(あらかん)といい、小乗の悟りをきわめた仏弟子のことです。
宝暦年中(1751〜1763)方広寺輪番だった拙巌和尚が円覚経を提唱しようとして大蔵経をしらべ、羅漢さんがこの世に現存して仏法を護るという内容を読み、また開山圓明大師が中国で修行中、天台山の石橋に茶を献じられたとき、羅漢さんが現れて開山を祝福されたとの故事、更に開山がこの方広寺に住山しておられた頃、五百人の修行僧がここで開山の弟子として参禅していたこと等を象徴して、五百躰を彫刻させ、明和7年(1770)に完成、境内全域におまつりしたもの。
昔から「五百羅漢のなかには必ず自分に似たお顔がある」といわれている。このユーモラスな姿から自分によく似た羅漢さんを見つけ、対面するのも一興でしょう。 |