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村雲御所と称し、日蓮宗唯一の門跡寺院である。後継者は皇族、五摂家、華族から出て代々尼宮が住持する慣わしであった。
当所は、天正13年(1585)関白豊臣秀次が八幡城を築いた要害の地であった。当門跡は、秀次の生母瑞龍寺殿日秀尼が秀次の菩提を弔うために文禄5年(1596)正月に創建したもので、後陽成天皇から村雲の地と瑞龍寺の寺号および寺禄一千石を賜り、また紫衣の着用と菊の紋章を許されて勅願所となった。歴朝の尊崇も浅からず、寺格は黒御所と定められ、これによって村雲御所と呼ばれることになった。 |
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八幡公園に立つ豊臣秀次の像
<豊臣秀次>(1568〜1595)
○永禄11年(1568)豊臣秀吉の姉の子として生まれる。
○天正9年(1581)羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀次と名乗る。
○天正13年(1585)18歳で近江国43万石を与えられ、八幡山城を築城し、城下町八幡を開く。
○天正18年(1590)尾張・北伊勢100万石を与えられ、尾張清洲城にうつる。八幡山城には京極高次が入る。
○天正19年(1591)秀吉の実子(鶴松)が病死し秀吉が隠居すると、後を継いで豊臣秀次と名乗り関白となる。
○文禄2年(1593)秀吉の実子(秀頼)が生まれる。
○文禄4年(1595)謀反の罪を着せられ高野山に追放、自害を命ぜられる。享年28歳。
<秀次のまちづくり>
「八幡山下町掟書」楽市楽座を定め、有力な商人や職人を呼び寄せ、自由商業都市とした
「町割」碁盤目状の通りをつくり、職種別に住む地域を分けた。また、下街道(後の朝鮮人街道)をこの町割に引き込み、陸上交通の要衝とした。
「八幡堀」城の堀としてだけではなく、琵琶湖につながる運河として湖上交通の要衝とした。 |
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