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<義仲寺略誌>
当、義仲寺の地は、その昔は粟津原(あわづがはら)といはれ、寿永3年1月20日、征夷大将軍木曽義仲公はここで討死せられた。その後、年を経て、一人の尼が来り、公の墓に侍して、供養ねんごろなるによって、里人いぶかしみ、その有縁を問うに、「みづからは名も無き女性」と答えるのみだったが、この尼こそ巴御前の後身にて、これが往昔当寺を、巴寺と呼び、また無名庵の名の出た由緒である。
戦国の世に至って、近江の国守佐々木侯は、木曾公墓を護持するため当寺を修復された。その頃の義仲寺の景観は、湖水を前にし、現在の龍岡あたりに及ぶ山地を後にし、境内極めて広大であったと言われる。
元禄の俳聖松尾芭蕉は、木曾公の心情に同情し、慕って無名庵に来り滞在されること多く、大坂の宿で死去される時、遺骸は近江義仲寺なる義仲公の御墓の隣に埋めよ、と遺言され、現在、義仲公の墳に並んで、芭蕉翁の墓が建っている。
無名庵は芭蕉翁の没後、その高弟内藤丈艸が庵主となった。代々の俳人によって、我国俳諧道第一の聖蹟とされてきたのである。
天明の頃の俳僧蝶夢は、芭蕉翁を深く敬慕し、蕉門の俳風を顕揚した。芭蕉翁の二つの重き遺蹟として、無名庵と嵯峨の落柿舎の復旧に努めた。
義仲寺無名庵は、国史上有数の名所として、昭和42年11月20日、境内地全部が、文化財保護法によって、文部省より「史跡」と指定された。
現在寺内には、朝日堂、無名庵、翁堂、粟津文庫が建ち、義仲公墓、芭蕉翁墓、巴塚があり、翁の句碑を始め碑文が多い。粟津文庫は蝶夢法師の開設になり、俳諧の古書籍書画を収蔵する。今も新著の俳書等を奉納する例がある。
名高い巴地蔵尊は、山門前右側の堂内に安置され、古より信仰厚く親しまれている。
「大津市指定史跡」なる龍岡俳人墓地には、丈艸以下代々の無名庵主の墓石が並んでいる。
本寺は、古から「よしなかでら」とも呼ばれ、現在は天台宗なれど、宗教法人上の単立寺院である。 |
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<義仲寺境内>
義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきているが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがある。門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っている。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑がある。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もある。昭和42年(1967)11月に国指定の史跡となった。 |
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<朝日堂>
木曽義仲は「朝日将軍」と呼ばれたことから朝日堂と呼ばれている。木曽義仲、今井兼平、松尾芭蕉ほか三十一柱の位牌を安置している。 |
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<翁堂>
松尾芭蕉の像を安置している堂。 |
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正面祭壇に芭蕉翁座像、左右壁上には三十六俳人の画像が掲げられている。
<伊藤若冲筆「花卉図」(原画)>。
若冲の花卉図天井画の原画は、安政6年(1859)に寄進された。約42p四方の板に直径約34pの円を作り、そのなかに12種の草花の彩色画が描かれている。草花の名は次の通りです。(上の写真に対応している。)(上が入口側)
シャクヤク |
シュウカイドウ |
キク |
ヤエヤマブキ |
アジサイ |
フヨウ |
カキツバタ |
ボタン |
シデコブシ |
ハス |
アサガオ |
カキツバタ |
シャクヤク |
キク |
ニワウメ |
現在、この原画は、高性能スキャナでデジタル処理されている。 |
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松井芭蕉の墓(上左画像)・木曽義仲の供養塔(上右画像) |
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<芭蕉翁の椿の杖>
芭蕉翁が使ったものと伝えられる。
箱書「なき人の跡にはおもかげの似たるをもしたしみなつかしと丈艸(じょうそう)禅師の書れし『雪の葉集』にのせたる故翁の持物多かる中、ことに蓑笠杖は行脚斗藪(あんぎゃとそう)の身をはなたで持給ふものなれば、なつかしさも一(ひと)しほなるに、笠は湖北平田の明照寺の庭に埋めて笠塚となし、蓑は播磨の増位山の麓に収めて今にあり。ひとり此椿の杖のみ百年近き迄も当寺にとどめて什物とするもさるべき因縁なるべし。」 |