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『日本書紀』によれば、崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子は法興寺を建立することを計画、同5年には仏堂(金堂)・歩廊(回廊)が完成、推古天皇元年(593)には塔を起工し、同4年には一応の建物が完成した。同13年には丈六(じょうろく)仏像を造り、翌14年に安置したとある。日本最古の本格的な寺院で、その造営に際して多くの博士・工人が朝鮮半島から渡来してあたったことが記されている。
大化改新や天皇の病気平癒など飛鳥時代を通じて飛鳥における中心的な役割を果たしたが、建久7年(1196)に消失し、現在に至る。法興寺・元興寺とも称され、現在は止利仏師の作と伝える重要文化財の金銅丈六仏が残る。
昭和31年(1956)から継続的な発掘調査の結果、塔を中心に三方に金堂を置き、北側に講堂、南側に中門・南門の跡があることが判明した。寺域は南北290m、東西200〜250mの規模をもち、飛鳥では大官大寺とともに、最大規模の寺院であった。
旧伽藍は仁和3年(887)に焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永9年(1632)と文教9年(1826)に再建され、今日に至っている。
現在は真言宗豊山派に属し、新西国第9番、聖徳太子第11番の霊場でもある。
<本尊飛鳥大仏(釈迦如来座像)>銅像、重要文化財
推古天皇13年(605)、天皇が聖徳太子や蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、同17年(609)鞍作鳥(止利仏師)によって造られた日本最古の仏像である。高さは約3mで当時銅15トン、黄金30sを用いて造られた。平安・鎌倉時代の大火災で全身罹災・後補を受ける。しかし、概形には飛鳥彫刻らしい形をとどめ、細部にもはっきりした飛鳥の特色を伝えている。今以て元の位置に端座している。 |
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<塔心礎位置>(地下3m)
・推古天皇元年(593)正月15日、舎利を心礎に納める。
・翌日、心柱を心礎の上に建てる。
・推古天皇4年(596)塔が完成する。
・建久7年(1196)落雷のため焼失。
・心礎は一辺2.4mでその中央には一辺1.6mの方形部分を平らに浅く削り、その中心に約30p角の方孔をほる。更に、その孔の東壁下部に約13p角の孔がほられている。
・この舎利孔に納められていた舎利は、建久7年の火災の後、掘り出されその一部を舎利容器とともに木箱の中に入れ、心礎より上部の地中に再び収めてあった。
・心礎の周辺より発見された物には仏舎利の他に、管玉・金銀の小粒・銀の延板・勾玉・赤瑪瑙(めのう)・水晶の切子玉・銀製のくちなし玉・赤青紺緑紫黄色の小玉・金環・金銅の鈴及び瓔珞(ようらく)馬鈴などである。
・これらの出土物からみて塔が建立されたのは古墳時代後期とみなしてよいだろう。(説明文)
<飛鳥寺形石燈籠>
「日本の燈籠」に選べれている極めて清楚な形で、完全に保存されている。 |
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<西門跡>
飛鳥寺は588年に造り始められた日本最初の寺。塔を中心にその北と東西に三つの金堂が建っていた。北の中金堂にあった鞍作鳥作といわれる飛鳥大仏は、今もその位置を動いていない。
西門は礎石をおいて柱を建てた瓦葺きの門。間口3間11.5m、奥行2間5.5mの規模だった。門の西には塀があり、土管をつないだ上水道が埋まっていた。寺の四方に開いた門の中では、この西門が最も大きい。寺の西に、飛鳥の檜舞台、「槻(つき・ケヤキの古名)の木の広場」があったからだ。中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠(けまり)の場で出合い、645年に大化改新を成し遂げた。この時、二人は飛鳥寺に陣をかまえ、西門から甘樫丘の蘇我入鹿・蝦夷の館をにらんでいた。672年の壬申の乱の時には広場を軍隊がうめつくした。
その後は、外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となり、噴水がおかれ、歌や踊りが満ちあふれた。西門はそんな飛鳥の歴史を見守ってきたのだった。 |