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花岳寺は、初代赤穂藩主浅野長直により、正保2年(1645)、浅野家の菩提寺として建立された。元禄赤穂事件後は歴代赤穂藩主(永井家・森家)の菩提寺ともなっている。曹洞宗。
平成元年(1989)には、市史跡に指定されるなど、元禄時代の姿を現在に残す貴重な建物です。境内には、浅野家と義士に関する貴重な資料を展示する「宝物館」、千手観音尊像、四十七士の木像を安置する「義士木像堂」、義士たちの遺髪が納められていると伝えられている「義士墓所」などがある。 |
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本堂の天井に「天井絵」が描かれている。安政元年(1854)に赤穂の画家・法橋義信によって描かれたとされている。 |
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<鳴らずの鐘>
この梵鐘は赤穂二代藩主浅野長友公が父長直公のための鋳造したものである。ところが三代の長矩公の代に至り、吉良義央へ殿中において刃傷に及んだ事から赤穂浅野家は三代で断絶した。
元禄15年12月14日家臣四十七人は吉良邸へ討ち入り、長矩公の無念をはらした。翌年2月4日、四十六士は切腹を仰せつかり、四候邸で見事に自刃した。この報が赤穂に届いたので、町民は四十六士の死を悼み、悲しみ、花岳寺に集まり、この鐘を撞いて撞いて撞きまくり、爾来音韻を失すること50年と寛政9年再改鋳のこの梵鐘に銘記してある。
音韻を失していた間を赤穂では誰いうとなく鳴らずの鐘と言っていた。」とあり、更に続けて「この度の戦争で全国の寺々の鐘は供出を命じられたが、この鐘は義士との由緒深きにより供出を免れた赤穂市内唯一の梵鐘である」
<大石なごりの松>
大石内蔵助良雄が、母松樹院がなくなられた時冥福を祈るために植えたものであった。元禄赤穂事件後、大石が赤穂を去る際に大石家先祖の墓にお詣りし、松の木に別れを告げ、名残を惜しんだことから「大石なごりの松」と呼ばれるようになったそうです。現在は、松は枯れ切り株として残っている。本堂前の松は二代目にあたる。 |
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<報恩堂(千躰観音堂)の」由来>
この堂は、庚申堂として建てられ、青面金剛尊(病魔を払い除く金剛童子)を主に、稲荷大明神(五穀を司る神の使い)、塩釜大明神(安産の神)、秋葉大明神(火難よけの神)を祀り、地域の信仰を集めた。
元は報恩寺に属し、管理は遠林寺に任されていた。しかし、明治の初年に遠林寺が廃寺となったため、花岳寺の管理となり、やがて当山に移設された。
それより町村の有志が千躰観世音菩薩像を奉納し、明治25年以降は赤穂大水害に遭われた方々への菩提供養のために、また毎年8月10日には「四万六千日」の観音菩薩の功徳に触れるために、盛大な法要が行われたと伝えられている。
現在も毎年8月10日に、その法要と祭りが執り行われている。なお、平成25年夏、尊い喜捨により、堂内、千躰観音像の全面改修が行われた。誰もが無常の教えのもと、観音妙智力により、仏の広大な智慧と慈悲をそなえ、願いが満たされんことを。 |