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<明治村の沿革>
戦後の日本は荒廃から立ち直る過程において過去の多くの貴重な建築を無思慮に破壊する事態を迎えた。それは「過去とは背に廻った未来である」ということを忘れた悲しむべき現実であった。その現実に対して、先人達が努力と名識によって営々っと築きあげてきた明治建築を、破壊から少しでも救済し、保存してその文化を自ら語らせるために開かれたのが明治村である。
明治村は建築家谷口吉郎と実業家土川元夫によって発議された。二人は学生時代の僚友であり、企業活動としてではなく、日本の現状を憂うる同志として文化財保護のために青春の友情を温め立ち上がったのである。
土川元夫が社長であった名古屋鉄道は、現在の明治村の地、大和時代安閑天皇紀の入鹿屯倉(いるかみやけ)の古代史の謎を秘めた自然豊かな入鹿池畔の広大な地を明治村のため提供した。 |
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明治村が財団法人として発足したのは昭和37年(1962)であった。工事は多数の人々の支持をうけ進捗した。入鹿池畔の自然を大切に保存しながら、ようやく博物館明治村が開村されたのは昭和40年(1965)3月18日である。
開村当時の明治村は、遙々(はるばる)と北海道から移築された石造りの札幌電話交換局、京都の聖ヨハネ教会堂、東京で森鴎外と夏目漱石の両文豪が奇しくも相前後して住み、数々の名作を残した由緒ある住宅をはじめ、全国各地から破壊寸前に救済移築された建築や、電車などの施設物15件に過ぎなかった。それが開村25年目の平成12年(2000)10月現在では建築物63件となり、その中には国民共有の国の重要文化財に指定された建築物も既に10件に達し、博物館の敷地を開村当時の2倍近くの100万平方メートルに拡げられている。
明治村は建築を主体とする野外博物館であるが、個々の建物はまた独立した小博物館としてそれぞれに屋内展示がなされている。また建物自身も入鹿池と尾張富士の風光にとけこみ、こよない散歩の場を提供しているので、リクリエーションの場として利用されることを願うものである。 |
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<明治の水道管>
○製作 水道管 釜石鉄鋼所 仕切弁 英国・グレンフィールド・ケネディ社
○製造年 明治44年(1911)
○寄贈者 名古屋市水道局 |