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明治期の手漕ぎ(14丁櫓)の木造和船の模型(縮尺1/10)。船首(舳)が黒く塗られていたため、「黒ミョウ」と呼称されていた。構造は、シキイ(底板)とウワダナ・ネダナ(上下の側板)の5枚板から成る。側板と側板の間に渡したキリバリ(切梁)が船体の横強度を保持した。
船の大きさは全長36尺(約11m)から42尺(約13m)ほどで、船を漕ぎ進める櫓の数は12丁櫓が数多く、14丁櫓が最大であった。
造船は舞坂で行われたが、大きな船の場合には御前崎や地頭方(御前崎市)などから船大工よ呼び寄せた。(河合造船製作)
<鰹釣り漁>
舞阪での鰹漁の始まりは、今から300年位前と言われている。明治15年(1882)頃には、黒ミョウという大きな和船が10余艘あって、4〜10月にかけて出漁していた。
そのころの出漁には、まず餌になるイワシを沖に出てタモですくい取り船の生けすに入れ、それから鰹の群れを探す。群れを発見すると全員で櫓をこぎ、群れの上で餌のイワシをまき、船側に鰹を集めて釣り上げた。
その後、2艘の船で網を曳いて餌鰯(イワシ)を取る方法に改められた。この船をヤシャアミと呼んだ。 |
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明治の終わり頃になると、和船のともを改造して、石油発動機(電気着火)を据え付け、動力で出漁するようになった。
餌を取るのにも2艘の鰯網船を引いて行かなくて、網を改造し本船だけで曳くようになった。餌が取れると網を積んでそのまま出漁するというように簡素化された。漁場も西は紀州沖(和歌山県)から、黒潮にのって群れを追い伊豆七島付近にまで広がった。(舞阪郷土資料館) |
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