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<重要文化財明治丸>
本船は明治の初頭に、我国政府が英国に発注して建造した豪華な灯台視察船であった。明治6年(1873)にグラスゴー市のネピア造船所において建造が開始され同7年(1874)11月に竣工、翌8年初頭に出港し同年2月、横浜港に到着した。建造当時は、2本マストのトップスル・スクーナ型帆装鉄道汽船で総トン数1028トン、長さ73m、幅9m、機関は往復動汽機2基の双螺旋船、実馬力1530、平均速力11.5ノットを誇っていた。
明治9年(1876)の夏、明治天皇は東北巡幸に際し、青森から本船に座乗され、函館経由7月20日無事横浜港に帰着された。「海の記念日」はこの日に因んで昭和16年(1941)に制定されたものである。当時の御座所跡は現在も残っている。爾来、本船は約20年間灯台視察船として活躍したが、明治29年(1896)7月、当時霊岸島にあった商船学校(本学の前身)の係留練習船として貸与され、その沖合(現在の永代橋下流)に係留された。翌30年11月、本校に移管された後3本マストのシップ型に改装され、明治34年(1901)12月、越中島のこの地に定係された。
本船が商船学校の神聖な教場として活用されたのは昭和20年(1945)8月に至るまでの50年間で、この船を母なる船として巣立った海の若人の数は万余に達する。この間、明治44年(1911)および大正6年(1917)には来襲した猛台風による高潮で擱座したり、大正12年(1923)9月の関東大震災、さらに昭和20年(1945)3月の東京大空襲に遭遇するなど数々の試練や災禍に対しても、この地と共に耐え抜きその都度罹災者を収容するなど江東の人々からも信頼と敬愛を得てきた。
終戦の年の9月、越中島の学舎と共に進駐軍に接収され、不幸にも本学の管理も出来ないままに荒廃し遂に昭和26年(1951)漏水のためポンド内に沈座するに至った。その後漸く接収が解除されるに及んで、これを引き揚げ、昭和35年(1960)の本学85周年記念事業、さらに昭和50年(1975)の百周年記念事業の一環として、同窓有志や海運業界・海事諸団体等の芳志・支援によって本船復元の第一歩が踏み出された。
明治丸は現存する唯一の鉄船(現在の船は全て鋼船である)であり、我国造船技術史上の貴重な遺例として昭和53年(1978)5月、船としては初めての国の重要文化財に指定され、昭和55年(1980)4月から文化庁及び本学の協力により本船の保存修復及び基盤整備工事が行われ昭和63年(1988)1月に完工した。
明治丸は、ここにその優美な姿を再現し、永久に保存されるとともに、その栄光の歴史が世々語り継がれることになった。(東京商船大学・説明文より) |
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<「海の日」の由来>
明治9年(1876)明治天皇が東北巡幸の帰途、船で青森を出発し、函館を経由、7月20日に横浜に帰着した。この航海には、岩倉具視、木戸孝允などの明治の元勲160人余が同行していた。
「横浜毎日新聞(明治9年7月22日号)」の記事には、20日午後7時30分頃相州金田沖(現在の横須賀市金田湾沖)を航行、その後艀(はしけ)に乗り換えて午後10時に大波止場(現在の横浜市・象の鼻地区)に上陸したと記されている。
使用された船は「明治丸」。明治7年(1874)英国グラスゴーの造船所で造られ、翌年横浜に回航された汽帆船で、就航当初から天皇の御乗船(ロイヤルヨット)として利用されていた。現在は復元整備され、重要文化財として東京海洋大学構内に保存されている。
「海の記念日」は、この7月20日にちなんで昭和16年(1941)に制定された。国民の祝日である「海の日」は、平成8年(1996)「海の記念日」を踏襲し「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを目的に制定された。その後平成15年(2003)の祝日法改正により、7月第3月曜日が「海の日」となった。(象の鼻地区の説明文より) |
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