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開陽丸の主砲・大砲26門は注文時、施条砲26門であったが、幕府の要望で施条砲6門、通常砲20門と変更した。しかし、最終的な調査で、オランダでの積み込みリストなどから、施条砲(16センチクルップ砲)18門、通常砲8門に落ち着き、後に9門が追加され35門となった。
名称 |
寸法 |
重量 |
施条 |
30ポンド短カノン砲 |
全長2m42p 口径16p |
1,688s |
ナシ |
16サンチクルップ砲 |
全長3m35p 口径15.8p |
2,855s |
アリ |
1ポンド自在砲 |
全長1m5p 口径5,3p |
85s |
ナシ |
9インチダルグレン砲 |
全長3m33p 口径22.5p |
4,200s |
ナシ |
12ポンドカノン砲 |
全長2m13p 口径11.6p |
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アリ |
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ハンモック |
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<榎本武揚>
長崎海軍伝習所に学び、様式海軍学習得のためオランダに留学。帰国後は江戸幕府の海軍副総裁となる。明治維新の際、開陽丸に乗り込み、幕府艦隊を率いた。
降伏後、投獄されたが、釈放され、外交官、政治家として活躍した。
<土方歳三>
新撰組副長。戊辰戦争で宇都宮、会津で官軍と戦い、仙台から榎本武揚の軍艦に同乗。五稜郭占領後、陸軍奉行並となる。明治2年函館で戦死。
<中島三郎助>
ペリーが来航した際、米艦に乗り込み、初めて接見した。長崎海軍伝習所に学び、開陽丸では機関長を務めた。五稜郭占領後、箱館奉行所並となり、千代が台で戦死。
<荒井郁之助>
幕府の軍艦操練所頭取、講武所取締役等を歴任し、海軍奉行となる。榎本軍では海軍奉行として開陽丸以下11隻の艦隊を率いた。
<沢太郎左衛門>
長崎海軍伝習所に学んだ後、軍艦操練所教授となる。榎本武揚と共にオランダに留学し、開陽丸で帰国した。戊辰戦争では、榎本武揚の下で、幕府艦隊旗艦開陽丸の艦長として戦った。
<作戦用テーブル>
このテールは、開陽丸沈没時に漂着したものと伝えられ、旧江差町役場庁舎町長室に保存されてきたものである。 |
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