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十石舟は、もともとは、江戸時代、伏見と大坂間を行き来した舟であった。その目的は、伏見の酒や米などの輸送と旅客の往来であった。現代風にいえば貨客船である。現在は観光船として伏見の風物詩になっている。三十石船は、十石舟より船体が大きかった。 |
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<三十石船>
三十石船とは、江戸時代に淀川を上下した客船である。乗客は、まず船宿に入り、それから乗船していた。寺田屋も有名な船宿の一つで、この付近には多くの船宿が並んでいた。
淀川は平安時代以来船運が盛んで豊臣秀吉、次いで徳川家康が過書船の制度を定め、運賃や営業に対し税を課すなど取締りを行い、伏見大手筋には、過書船番所を設けていた。
船の大きさは二十石積から三百石積で数百隻が運行し、貨物や旅客を運んでいた。その内三十石船は長さ約17m、幅2.5m、船頭4人、定員28名の旅客専用船で上りは1日又は一夜下りは半日、又は半夜で伏見と大阪天満の間を運航した。
船賃は江戸時代中期で約50文、途中枚方に立ち寄る。そこでは船客に「くらわんか」と声をかけながら、餅を売りにきた。そうした風俗や船内の様子は、落語や講談浪曲で有名である。なお三十石船は明治4年(1871)に廃船になった。 |
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<「龍馬とお龍、愛の旅路」像>
薩長同盟を締結させた直後の慶応2年(1866)寺田屋に宿泊していた坂本龍馬は、伏見奉行所配下の捕り手に囲まれる。この時、危機を察知したお龍により命を救われた龍馬は、しばらく伏見薩摩藩邸にかくまわれていたが、右手の傷を癒やすためここ寺田屋浜から三十石船に乗り、お龍とともに、九州の霧島へと旅立った。 |