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<勝鬨橋>(かちどきばし)
勝鬨橋は、シカゴにある跳ね橋をモデルに昭和15年(1940年)に完成した橋です。橋がない時代は渡船(渡し船)での往来であった。「勝どきの渡し」といわれていた。そのことから「勝鬨橋」という名が付けられた。なお、勝ちどき(勝鬨)とは、勝利の際にあげる勝ち鬨のことを指している。昭和44年9月、晴海通りの著しい交通混雑を直接の理由として開閉が中止され、以降開かずの橋となっている。
<勝鬨の渡し>
明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態だった。
明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付した。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちどきのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋區祝捷會孝行之日建立
京橋區同志會」と陰刻されている。
設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150m西の波除稲荷神社の辺りにあった。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していた。
勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていた。特に、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となった。
大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになった。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止された。
勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残している。 |
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<佃大橋>
佃大橋は、「佃の渡し」のあとに架けられた橋である。「佃の渡し」は320余年続き、隅田川では最後の渡船場であった。永代橋や勝鬨橋などの交通量の増加と東京オリンピック開催に備えた関連道路(橋)として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。 |
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<中央大橋>
平成時代に架けられた橋で、都市景観にマッチしたデザインになっている。遠くからでも特徴的な橋の形が見分けられる。 |
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<永代橋>
隅田川で4番目に作られた橋で、元禄11年(1698)に江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝ったものであった。当時の「深川の渡し」のあった場所に架けられたが、その位置は今よりもやや北側である。
現在に位置になったのは明治30年(1897)のことであり、それは日本初の道路橋として鋼鉄製の橋が架けられた。関東大震災で被災し、大正15年(1926)に現在の橋が再架橋された。
<大田南畝の狂歌>
『永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼』
文化4年(1807)、深川富岡八幡宮の祭礼日に詰め掛けた群衆の重みで落が落ちる。橋のやや東側の部分が崩れ落ち、後ろから次々と群衆が押し寄せて転落していった。死者は1500人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。 |
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<隅田川大橋>
首都高速の建設にあわせて架橋されたもので、隅田川で唯一の二層式の橋である。下段が隅田川大橋、上段が高速道路高架橋である。 |
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<清洲橋>
ドイツのケルン市の大吊り橋をモデルにし、昭和3年(1927)に深川の清澄町と日本橋の中洲町を結ぶ橋として建設された。橋名は両町名を一字ずつ取ったそうです。この橋ができるまでは
「中洲の渡し」があったとのこと。永代橋が「男性的で 重量感あふれる」のに対しこの橋は「女性的で優美な雰囲気」と多くの方が言っていますがどうなんでしょうか。 |
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<新大橋>
日本橋浜町公園から森下方面へ行くと大きな橋がある。支柱からワイヤが伸びている独特の形の橋である。橋の中央近くに江戸時代、明治時代の新大橋のレリーフと橋のいわれが記された銅板がはめこまれており興味深かった。
この橋は、関東大震災のおり、隅田川に架かる5大橋(永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住橋)の中で、唯一被害の無かった橋として、また、東京大空襲のおりも焼け残り、大勢の命を救ったという事です。現在の橋は昭和52年に完成した。 |
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<両国橋>
両国橋の名前の由来は、武蔵と下総の二国を結ぶ橋ということから付けられた。江戸時代、明暦の大火で多数の犠牲者が出た。防災上の必要性と江戸市街の拡張を目的として万治2年に架けられたのが最初である。(回向院はこの明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられている)その後、何回か架け直され今の橋は、昭和7年に震災復興事業として架けられている。
橋を渡っていくと途中に円形のバルコニーがある。それは土俵となっていて俵も回してある。高欄の柱や車道・歩道の分離柵にも行司の軍配をデザインする等相撲の小物があり、いかにも両国という感じがする。 |
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<蔵前橋>
かつて「富士見の渡し」の渡船場があった場所で、関東大震災後、現在の橋が架けられた。橋名は「蔵前通り」から付けられている。橋全体が黄色に塗装されているのが鮮やかである。昭和29年(1954)から和59年(1984)まで蔵前国技館があったため、高欄には力士などのレリーフが施されている。
両国橋と蔵前橋の間にはJR総武線の鉄橋がある。 |
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<厩橋>
江戸時代の元禄頃の「御厩の渡し」のあった場所に架けられた橋で、橋の名は「御厩河岸(蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」から付けられた。現在の橋は、関東大震災後に架けられている。 |
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<駒形橋>
駒形の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。
ここは古来、交通の要地で、”駒形の渡し”のあったところである。江戸の巷説に有名な、
君はいま 駒形あたり ほととぎす
の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とと もに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。
関東大震災(1923)の後、復興事業の一環として、この地に新しく優美なアーチ橋が設計され、昭和2年(1927)に完成した。
歌人、正岡子規の和歌にも
浅草の 林もわかず 暮れそめて 三日月低し 駒形の上に
というのがあり、当時の景況がしのばれる。 |
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<吾妻橋>
かつて「竹町の渡し」があった場所に架けられている。隅田川に架橋された5つの橋のうちの最後の橋である。初めは「大川橋」と呼ばれたが、明治になってから「吾妻橋」となった。
浅草の中心に近く、地下鉄、私鉄の浅草駅もすぐそばである。隅田川を往復する航路の基点にもなっている。アサヒビールのシンボルもごく近くに見える。 |