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かつてここに架かっていた高麗橋など甲突川の五大石橋は、家老調所広郷の天保財政改革の成功による城下整備の一環として、わざわざ肥後の石工・岩永三五郎を招いて、架けさせた歴史的建造物であった。
平成5年(1993)8月67日の集中豪雨による洪水で武之橋と新上橋の2石橋が流失してしまい、残った3橋は河川改修計画に合わせて、市内祇園之洲地区に一体的に移設復元し、末永く保存し活用することになった。
高麗橋は甲突川に架けられた五大石橋の中でも2番目に長い、4連アーチの石橋でした。新上橋に比べると橋壁の傾斜は急勾配で、上流側の水切石が垂直に近い勾配で立上り橋面近くまで築かれていた。この大きな水切石や河床に敷かれていた敷石で水の勢いは制御され橋が守られていた。この頃から岩永三五郎の指導のもとで、地元の石工山田龍助、田中源治郎が活躍した。 |
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<岩永三五郎>
江戸時代末期、薩摩国に36もの石橋を架けた岩永三五郎は肥後(熊本県)の石工です。
天保年間の大胆な財政改革で知られる家老調所広郷は、毎年のように洪水で流される木橋にかえて、永久橋をつくるため、奉行見習いの待遇で三五郎とその弟子を招いた。
手始めに架橋した稲荷川の石橋で自信を得た三五郎は、大工頭の阿蘇鉄矢の協力を得て甲突川の五大石橋を完成させたのです。その後、川内の江之口橋架橋を最後に薩摩を去り、肥後で59歳(1851年)の生涯を終えた。 |
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