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<上芳我家住宅> 重要文化財
上芳我家住宅は、内子最大の製蝋業者であった本芳我家の筆頭分家の屋敷である。 主屋、炊事場、仕舞部屋及び便所、産部屋、離座敷、風呂場・便所、釜場、出店倉、物置、土蔵、離部屋の10棟が現存し、居住部分とともに木蝋生産関係の施設をともなっている。敷地内にはかつて蝋の晒し場が広がっていた。
主屋は木蝋生産の最盛期であった明治27年(1894)に上棟されており、その他の建物についても主屋とほぼ同時期の明治30年代には完成していたものと考えられる。最も古い建物は出店倉で、これは本家から分家した文久元年(1861)頃のものと考えられる。また、離部屋は明治20年代中頃の建築とみられる。
上芳我家住宅は各建物の質がよく、敷地も往時の面影をよく伝えていることから、地場産業と豪商の住宅の関わりを示す点で貴重な遺構である。
平成20年(2008)から平成23年(2011)にかけて、耐震補強を含めた保存修理工事が行われた。 |
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<木村家住宅> 重要文化財
木村家は、江戸時代から大和屋と称す商家であった。江戸期の商売は定かではないが、明治時代中頃には藍作り、穀物商を営んだ。その後、明治30年(1897)から大正5年(1916)頃までは、生糸製造に関わった。
主屋は寛政年間の建築で、町内でも最古級の町家である。桁行10.7m、梁間9.0m、切妻造、桟瓦葺の建物で、正面二階には額縁付の蓮氏窓三つを開け、建物を特徴づけている。主屋の背後には明治18年(1885)建築の裏屋敷があり、敷地内に独立して木小屋と藍蔵がある。
家には、明治18年(1885)作成の「大和屋本家図」と「永久日記録」が伝わっており、建物の改変を知ることができる。
大村家は、内子で木蝋が盛んになる以前の古い主屋を持ち、江戸時代後期から明治期の町家の状況がわかる貴重な建物である。平成21年(2009)から24年(2012)にかけて保存修理工事が行われた。 |
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伝統的建造物群保存地区である町並みの通りを歩く。 |
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<町家資料館>
この資料館は、江戸時代の町家の生活様式を学ぶ場として内子町が公開しているもので、内子町に現存する最も古い町家のひとつです。建物は腕木に書かれた文字から寛政5年(1793)の創建と思われる。また構造は、住いとしての性格よりも商家としての性格がよく出ている。
現在までに何度か改修され外観内部共にかなり手を加えられていたが、昭和62年(1987)に建築当時の姿に復原され、この度町家資料館として開館することとなった。これにともない、江戸時代の代表的な暮らしを復原した。 |
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内子は、江戸時代の中頃から、在郷町として栄えた町である。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、八日市村、小田川の対岸の知清村の四つから成り立っていた。
肱川支流に点在する集落で生産された和紙は、六日市村、八日市村の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていた。江戸時代の末期から明治時代には、櫨(はぜ)の実から抽出した木蝋を良質の晒蝋(さらしろう)に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として大いに繁栄したところである
八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国遍路の旅人が往き交じったところで、蝋商芳我家を中心に2階建て、平入り、瓦葺の主屋が600mにわたって連続する伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面は蔀戸(しとみど)や格子を構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。
内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存活動に取り組んでいる。 |
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