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曾祖父は養子であった。祖父も養子であった。父も養子であった。女が勢いのある家系であった。曾祖母も祖母も母も、みなそれぞれの夫よりも長命である。曾祖母は、私の十になる頃まで生きていた。祖母は、九十歳で未だに達者である。母は七十歳まで生きて、先年なくなった。女たちは、みなたいへんにお寺が好きであった。(中略)私たちも幼時から、イヤになるくらいお寺まいりをさせられた。お経も覚えさせられた。(苦悩の年鑑) |
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<台所>(板の間)
台所は、三間間口に六間奥行きの吹き抜け「板の間」で、明かり採り窓がつき「シボド(炉)」がきってある。この炉端は働き着のまま客を通す、邸内で一ばん気楽なところで、太宰さんも幼少のころよく遊んだ場所です。
台所といっても「ヤマゲン」では、炊事はこの炉ではない。台所の奥の八畳分しきったところが(奥の畳の部屋)「炊事場」であったということです。
津島家では、その炊事場のツバ釜で飯を炊き、煙突の無いところではマキを使わず、七輪の炭火で調理し「茶の間」や「常居」に運んで食事をしたようです。
暖房はおもに炉と火鉢で、炊事用と合わせ、年に木炭五百俵も使ったそうです。
台所の上がり端の右手が「釜場」で、当時は大中小三つのカマドが並び、大釜では一年中朝湯を沸かし、他のカマドも、糯米(もちごめ)をふかしたり、大豆をふかしたり、納豆や、甘酒、水飴作り間食用ににどいも(じゃがいも)、青豆、キミ(とうもろこし)をゆでて、何でも自家製だから小さい工場くらいこの釜場を使ったようです。 |
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<太宰治誕生の「部屋(小間)」>
太宰治は明治42年(1909)6月19日、新築された邸宅の裏階段北側の十畳間、この「叔母」の部屋が産室にあてられ誕生した。
太宰治は、『六月十九日』(昭和十五)と題する随筆の中で、「…私の生まれた日は明治四十二年の六月十九日である。私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんたうの子でないと思い込んでゐたことがあった。(略)家に出入りしてゐる人たちに、こっそり聞いて廻ったこともある。その人たちは大いに笑った。私がこの家で生まれたことを、ちゃんと皆がしってゐるのである。夕暮れでした。あの、小間で生まれたのでした。ひどく安産でした。…」と、記述しています。
また、この部屋は叔母きゑと四人の娘たちと、共に暮らした思い出深い「小間」だったのです。
「生まれてすみません」「罪、誕生の時刻にあり」と、いう名言と重ね合わせると、太宰誕生の「この、小間」は太宰文学の母胎にあたるでしょう。 |
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<座敷(大広間)>
太宰治は『苦悩の年鑑』に、「…父は、ひどく大きな家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間數が三十近くもあるであらう。それも十畳二十畳といふ部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣も無い。…」と書いています。
この座敷は、十八畳の「仏間」を中心にして、十五畳の「座敷」が二間、そして囲炉裏のついている十五畳の「茶の間」と四つの和室からなっています。襖を取りはずせば、六十三畳の「大広間」になる仕組みになっていて、父源右衛門時代には、「宴会」がよく開かれたということです。
用材品は、選りすぐった良材を使っている。特に構造材には特産の「ひば」をふんだんに使い、要所要所には「柱・式台・梁・階段」まわりなどに「ケヤキ」を使って、どっしりした味を加えています。また、「襖」「欄間」なども、当時としては贅をつくしている。
庭園に面した長い園側は、北海道の「タモ」材を横に張って煙のような雲のような杢(もく)がおもしろく浮き出ている。
<津島家御仏壇>
津島家の宗派は「浄土真宗東本願寺(大谷派)、菩提寺は南?寺」(なんだいじ)です。
明治46年(1913)6月の津島邸竣工に合わせ、太宰の父源右衛門が京都の仏壇店に特別注文したものです。
高さ189p、幅115p、三方開きで左右各4枚の戸が開き、その中の障子戸も左右各4枚ずつで構成されており、全て開くと幅は4mほどになる。二重の瓦葺屋根の宮殿(くうでん)をはじめ、内部の彫刻は開祖親鸞が定めた七高僧、竜樹・天親(世親)・曇鸞・道綽・善導・源信・源空(法然)や如来や天人の浮彫り、丸柱は牡丹の彫刻、引き出しには輪島塗の蒔絵と、細かな細工が施されている。
文治氏長男康一氏の御遺志と津島家ゆかりの方々のお力添えで、昭和23年(1948)に「離れ(新座敷)」を屋敷外に曳き家移転したときから、実に55年ぶりに元の津島家(現・太宰治記念館「斜陽館」)の仏間仏室に安置することとなり、平成16年(2004)6月19日から一般公開することとなった。 |
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<洋間>
明治末期、時代の風潮を受けて、内部の造作には和洋折衷の様式がとられ、特に階段と洋間には、鹿鳴館風のモダンさを残している。大工の棟梁は、堀江佐吉の息子である。また、建物の修復の際に壁の下張りとして、明治時代の書付が多数発見された。
<「書斎」「母の居室」>
太宰の母「夕子(たね)」の居室であったと言われている。
次兄英治さんは、「この部屋は『書斎』と呼んで、夏休み兄弟集まっていたものです。友達なんか来ても、この部屋へ連れて来て、ねんごろで小説を読んだり、菓子を食ったりしていました。あそんでばかりいたものです。」と、語っている。旅館時代は、「欄の間」とも呼ばれていた。 |
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部屋の右から三番目の「襖(ふすま)」いっぱいに書いている、漢詩に注目してください。「斜陽」という文字が見える。太宰治が、この「斜陽」という文字を少年の頃から見馴れていることになる。
太宰作品『斜陽』と、旅館名「斜陽館」にかかわって、太宰ファンからは「斜陽の間」と、親しまれた部屋です。 |
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<主人室>
父・源右衛門や長兄・文治が使用したといわれている。文治は、結婚を機に建築された離れ座敷(新座敷)に住んでいたが、父亡き後は、この部屋に移り住んだ。
源右衛門は、西津軽郡木造村の旧家松木家より太宰の母・夕子の婿養子となり、青森県議を経て、明治45年(1912)衆議院議員に当選、のち貴族院議員となる。
金木より東京での暮らしが多くなり、金木に戻るのは一、二ヶ月に一度。一週間ほど滞在すると、また東京へ出向いた。
<金襖の日本間>
小説「津軽」の中に太宰の心をあらわす一節がある。
兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらゐ打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよく分かってゐない。…(中略)…
「蟹はどうしませう。あとで?」と嫂は小声で私に言つた。私は蟹田の蟹を少しお土産に持つて来たのだ。
「さあ。」蟹といふものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちよつと躊躇した。嫂も同じ気持だつたのかも知れない。
「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまひませんよ。持つて来なさい。ナプキンも一緒に。」
今夜は、長兄もお婿さんがゐるせゐか、機嫌がいいやうだ。
蟹が出た。
「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まつさきに蟹の甲羅をむいた。
私は、ほつとした。 |
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<襖絵>
この襖絵は、右側から春夏秋冬の風景を描いたものです。作者は、真野暁亭。本名真野八十五郎(まのやそごろう)。生没年:明治7年〜昭和9年(1874〜1934)東京生まれ。
父親(八十吉、号:暁柳)が、河鍋暁斎の門人であったことから、暁斎に入門したが、就学後4、5年で暁斎がなくなったので、その後、久保田米僊に再入門し、才能があったので早く一家をなしたと、飯島虚心著『河鍋暁斎翁伝』にある。明治期の出品展覧会で数回入選している、優れた画家である。 |
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<店(金融業店舗)>
『回想の太宰治』(津島美知子著)の中に、「アヤ」こと中西信吉が、この部屋のことを次のように語っている。
「大戸を入ると左手は『店』で、勘定台まで、履物をはいたままふみこめるようにタタキになっています。小作人が帳場さんと話があるときはここへくるのです。」
この洋間を『店』と呼んでいる。最盛期には、三百人近い小作人がいたということですから、小作人と帳場さんとの話し合いの場が、この『店』(金融業店舗)であったということです。
邸宅が新築される10年間、明治30年(1897)7月27日、津島家では西側真向かいに、「合資会社金木銀行」を設立している。したがって銀行の業務は、「金木銀行」の方でしていたことになる。
<土間(タタキ)>
土間は、間口2間半、奥行き12間で、広さ30坪の大きさです。商家風の「通り土間」とも言われている。大勢の小作人が、小作米を積む場所です。五段十五俵の俵の山がタタキにいくつも出来、多い日には山が二列に並んだということです。夕方になると、その日に入った分はその日のうちに米蔵に運んだとのこと。
土間(タタキ)は、土などの上をたたき固めてつくった一般的なものではなく、当時の最先端技術を駆使したコンクリート製モルタル製、しかもモルタルの下には、レンガが敷き詰められているということです。
<津島家の小作料>
明治末期の反収は大豊作でも5〜6俵に過ぎなかった。津島家の小作料は、一反歩につき、上田で二俵半、中田が二俵、、湿田(腰きり田)5〜6斗とほぼ収穫の半分だった、と言われている。(鎌田慧著「津軽・斜陽の家) |
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斜陽館の庭園。 |