明治42年(1909) |
6月19日に生まれる。 |
大正 5年(1916)7歳 |
金木第一尋常小学校に入学、読書好きであり成績はいつも優秀。 |
大正11年(1922)13歳 |
明治高等小学校に1年間通学した。成績は抜群だが腕白だった。 |
大正12年(1923)14歳 |
県立青森中学校に入学。 |
大正14年(1925)16歳 |
文筆活動活発になる。「最後の太閤」 |
昭和 2年(1927)18歳 |
官立弘前高等学校文科甲類に入学。 |
昭和 5年(1930)21歳 |
東京帝国大学仏文科入学。 |
昭和14年(1939)30歳 |
1月8日井伏夫妻の媒酌で石原美知子と結婚。 |
昭和16年(1941)32歳 |
長女園子生まれる。 |
昭和17年(1942)33歳 |
10月、母夕子重体で、妻美知子、長女園子を伴って帰郷。 |
昭和19年(1944)35歳 |
長男正樹生まれる(昭和35年死亡)。小山書店から「新風土記叢書」の一冊として「津軽」の執筆を依頼される。
5月〜6月にかけて、津軽地方を旅行した。 |
昭和20年(1945)36歳 |
7月28日妻子を連れ、津軽に疎開することになり、31日金木の生家に辿り着いた。 |
昭和22年(1947)38歳 |
次女里子生まれる。 |
昭和23年(1948)39歳 |
6月13日、山崎富栄と共に玉川上水に入水し世を去る。一週間後の6月19日早朝、遺体が発見され、奇しくもその日、満39歳の誕生日に当たっていた。後に、その日が「桜桃忌」と名づけられるようになった。戸籍によると死亡推定月日は、昭和23年6月14日午前零時となっている。 |