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清華亭は、この地域が偕楽園という公園であった明治13年(1880)に、貴賓の接待所として開拓使工事局の設計監理によって建てられた。その庭園は、和洋折衷の美しいものだった。翌14年、明治天皇の北海道行幸の際に御休憩所となった。
偕楽園は、明治4年に札幌最初の公園として開設された。清華亭などの庭園造りをしたドイツ系アメリカ人、ルイス・ペーマーが園芸の指導にあたるなどして、園内には数百種類の植物が栽培され、北海道の産業振興の目的を担った農業試験場でもあった。
その後、規模を拡張して育種場と改め、植物場、温室、工業試験場などが付設された。また、園一帯には清冽(せいれつ)な湧き水がほとばしり、それらを水源とするシャクシコトニ川が流れていた。この川は「鮭の道」でもあり、鮭・鱒の孵化場も設けられた。
開拓使の時代が終わる明治15年(1882)以降、各施設が移転されるなどして、偕楽園はその機能を失い、自然の杜へとかえっていき、清華亭も民間人の所有となり忘れ去られる。
しかし、清華亭周辺の自然は、子供たちが駆け巡る天国となった。葦や笹が生い茂り、崖や谷地や斜面があり、せみ、クワガタがおり、青大将が出てきた。清流と大小の池にはフナ、八目鰻、ザリガニなどがすみ、アキアジものぼってきた。
昭和5年(1930)、建物は河野常吉氏の提唱で保存が図られ、同8年、札幌市に寄贈された。
昭和36年(1961)6月7日、建物は北海道開拓の黎明期の歴史を象徴するものとして、また、開拓使の建築技術者が洋風建築に和風様式を導入した貴重な例として、札幌市有形文化財に指定された。そして、この地区にある「清華亭公園」と「かいらくえん公園」に、かつての偕楽園の池地、御膳水の湧泉、子供たちの水遊び場の証跡をとどめている。 |
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この建物は、和洋両様式の建物であるが、面積は洋室部分の方が広い。外観は洋風に統一されているが、内部は洋室に床の間様の棚をとりつけ、天井中心飾りに桔梗模様を採用するなど和風への意慾も見られる。
この建築は、豊平館とほぼ平行して進められた。演武場(時計台)とともに、いずれも我が国でも類例の少ない開拓使建築の遺構として貴重である。 |
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<和室>
北海道には、本州にみられない厳しい自然条件がある。しかし建築伝統の重圧はなく、積極的に洋風建築の様式と技術を取り入れ、北海道独自の洋風建築文化を築き上げた。
清華亭は、外観、構造とも洋風であるが、付け書院、床および棚をもつ和室がある。これは清華亭のもつ使用目的上の必要から生じたものであろう。しかし、開拓期の人々の出身地での住居や生活への、あつい思いが底にあったものであろう。このような和室をもつ建築は、清華亭をはじめとし、旧永山武四郎邸さらに市内に残る明治期の民家にしばしば見られることである。
<出窓・玄関>
洋室の南面にベイウィンドー(出窓)がある。これは単に開口部であるだけはなく、外観の装飾となり、室内に重厚な感じを与える効果がある。またこの部分は全てセンの木を使用している。
このようにベイウィンドーの採用は、旧永山武四郎にも見られ、明治初期の建築では珍しい例である。西面に突出する玄関部は、切妻屋根で、妻に十字形の妻飾りを付けている。なお、星形飾りは、開拓使の記章である。 |