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にし茶屋街は、ひがし茶屋街・主計町茶屋街とともに、かつて栄えた金沢三茶屋街の一つである。
<にし茶屋街の沿革>
加賀藩12代藩主前田斉広は、文政3年(1820)金沢町奉行山崎頼母らの口添えにより、公許を与えて妓楼を区域を限定して集め、石坂茶屋町が出来上がり営業が開始された。しかし、天保2年(1831)には茶屋制度が廃止され、さらに慶応3年(1864)9月に再び公許されるなど、幾多の変遷を辿りながら、百有余年の歴史と伝統の面影を今に伝えている。
茶屋町は上町(現在地)と下町に分かれ、上町は金沢での紳士の社交場としての役割を果たし、数多くの名妓を生んでその伝統と格式は現在でも受け継がれている。
茶屋街の入口にはかつて大門があり番所が置かれて茶屋街の象徴でもあったが今は無い。茶屋街の建造物の特徴は、格子作りと掛行灯であるが、特に金沢の格子は桟が細くて間隔が狭いのが京都の島原や江戸の吉原と異なる点で以前は紅殻の朱で塗られていた。 |
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茶屋建築が並ぶ道の両側に料亭が軒を連ねている。建物のどこからか三味線の音が聞こえてくる。
大正時代の作家島田清次郎の小説の舞台になった。
<「地上」第一部 地に潜むもの>(大正8年6月)
「あゝ、この感情、この真理、これは自分一人ではあるまい。自分のこの涙は万人の涙であらう。自分は自分一人の寂しさに泣いていてはならない。あゝ、自分はどうなっても構わない。願くば、今、ひしひしと身に迫り感じる万人の涙の為めに戦おう!あゝ、自分には万人の悲しい涙にぬれた顔を新しい歓喜をもって輝かすことは出来ないのだろうか。自分の生はそれのみの為めの生涯であり、自分の使命はそれよりほかにはない!あゝ、この大いなる願が、自分の一命を必要とするならば、自分は死ぬべき時に死にもしよう!」 |
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