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金沢監獄は明治45年(1912)に制定の「監獄則並図式」に沿って造られた監獄である。八角形の看守所を中心に5つの監房棟が放射状に並ぶ洋式の配置である。明治村には要であった中央看守所と独居房として使用された監房の一部分が移築された。なお、中央に置かれている看視室は網走監獄で使用されたものである。
看視室からは各監房棟の中廊下が一望に見渡せ、外部については看守所上部見張り櫓から監獄全域の状況を把握できるため、管理上非常に効果的であった。登録有形文化財。
旧所在地:石川県金沢市小立野
建築年 |
明治40年(1907) |
解体年 |
昭和46年(1971) |
移築年 |
昭和47年(1972) |
建築面積 |
112.7坪 |
構造 |
木造平屋建 |
寄贈者 |
金沢市 |
(博物館明治村(愛知県犬山市)にて撮影) |
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「刑務所」〜その呼び名の移り変わり〜
「小伝馬町牢屋敷」や「石川島人足寄せ場」に代表される江戸時代の牢獄は、世襲制度による「石出帯刀」によって支配されていた。
明治維新以後、相次ぐ獄制の改革によって、牢獄は「囚獄」「監倉」「徒場」「懲役場」と、呼び名が変わったが、明治10年(1877)以降は「監獄」に統一された。
この呼称に伴って、牢獄の長も、「囚獄」「獄司」「囚獄取締」などと呼ばれたが、明治14年(1881)からは「典獄」に統一された。
その間、従来の都道府県が管理する監獄とは別に、国直轄の「集治監」が設置され、二本立ての獄制が明治36年(1903)の集治監制度廃止まで続いた。
現在の「刑務所」「刑務所長」の名称は、大正末期から使われ始めたもので、これは、「囚」とか「獄」の名称が、近代行刑にふさわしくないとする「刑務所用語改正(大正13年(1924))の気運が背景にある。 |
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<書信室>
書信室は在監者(囚人)が家族などへの手紙を書く場所です。明治41年(1908)の『監獄法』には「在監者ニハ信書ヲ発シ又ハ之ヲ受クルコトハ之ヲ許ス」と記され、手紙を書くことは許されていたが、発信する回数やあて先が親族に限られるなど制限が加えられていた。
この書信室は明治21年(1888)に竣工した東京集治監(旧・小菅刑務所、現・東京拘置所の前身)内の様子を描いた絵図をもとに再現している。 |
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<食等番号>
収容者はその作業内容で主食の量が分けられた。食事孔の左側の数字はその等級をあらわしている。1等食は873g、5等級は525g(米麦5対5)で、ちなみに明治5年の監獄則によれば強役者は1日7合(980g)であった。
<明治時代の監獄の食事>
明治時代の監獄の食事は、少ない予算の中から献立を作るため、恵まれたものではなかった。
明治5年の監獄則では、材料として肉類も制定されているtころに文明開化の影響をみることができる。明治15年(1882)の規則改正で、力役によって主食量を分けたり、米と麦の混合率を4:6とすることなどが決められ、さらに明治41年(1908)制定の監獄法では、一人一回米172g、麦192gとグラムで科学的に計量するように改められた。
○明治27年(1894)12月 岐阜県監獄署(標準的力役)
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4日 |
5日 |
6日 |
朝食 |
大根味噌汁 |
蕪味噌汁 |
大根味噌汁 |
昼食 |
大根漬 |
煮味噌 |
煮味噌 |
夕食 |
里芋牛蒡味噌汁 |
大根味噌汁 |
大豆里芋味噌汁 |
主食 飯(白米4:麦6) 一日6合 (参考:日本近世行刑史稿)
○現在の刑務所の献立 (協力:名古屋矯正管区)
朝食 |
味噌汁(わかめ、とうふ)、漬物(野沢菜) |
昼食 |
煮魚(さば)、大根おろし、野菜炒め(キャベツ、人参、モヤシ、ピーマン) |
夕食 |
すき焼風煮(豚小間)、野菜、いも)、昆布佃煮(昆布、ゴマ) |
主食 米375g 麦160g |
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<監獄建築>
江戸時代の牢獄は、取り調べの間、罪人を留置するところだった。それが、明治2年の獄制大改革によって罪囚に労働を科す「徒刑制度」が採用されたため、各地の牢獄は苦しい財政の中で古い牢屋を直したり、米倉を改装するなど、その対応に追われた。
このような中で明治5年に「監獄則」が制定され、監獄建築が図式で示されたが、国内の牢獄は直ちにこれに応ずることはできなかった。
明治12年(1879)に政府は、フランスの中央監獄制度(メーゾンセントラル)を参考に集治監制を取り入れ、東京や宮城に大監獄を作り全国の模範とした。しかし依然として地方はこれに応じることができず、以来監獄建築は、その地方の実情に応じ、地元にある資材を生かし、罪因自らによって建築するようになった。
<金澤監獄>
明治元年 |
旧藩政時代の公事場付設牢屋を廃止し、刑法寮設置 |
明治14年5月 |
金澤監獄署と改称 |
明治16年2月 |
石川県庁内に石川監獄本署が設置され、金澤監獄支所と改称 |
明治19年9月 |
地方官制改正により金澤監獄に昇格 |
明治23年10月 |
石川県監獄署と改称 |
明治29年 |
元鶴間町(現在の小立野5丁目)に新築起工 |
明治33年4月 |
監獄官制改正により司法省に移管、金澤監獄に改称 |
明治40年3月 |
竣工、元鶴間町に移転 |
大正11年10月 |
金沢刑務所と改称 |
昭和44年6月 |
建物の老朽化と金沢市の都市計画により現在地に新築起工
旧正門、中央看守所、監房の一部を明治村に移築 |
昭和45年11月 |
竣工、現在地に移転 |
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<網走監獄中央見張所>
網走監獄(当時釧路監獄署網走外役所と称した)が開設されたのは明治23年(1890)であったが、明治42年(1909)4月山火事の延焼により、教悔堂(きょうかいどう)、独居房1棟、倉庫等を残して焼失した。
同年8月復旧工事を開始し、明治45年(1912)3月に竣工した。この中央見張所も同期間に建設されたものである。ただし窓廻りは後に補修されたものと思われる。
この見張所が更新のため取り壊されたので、古材の寄贈を受け、昭和52年(1977)3月、明治村に移転復原した。 |