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<川越の町並>
川越は、江戸時代に文化や商業が発展し、小江戸と呼ばれていた。新河岸(しんがし)川の舟運により江戸の台所を賄う農産物や織物などを供給し、江戸との往来も盛んであったので、江戸文化が吸収できたためである。
ここ幸町の通りは、江戸時代から明治・大正時代にかけて川越の中心街であった。
明治26年(1893)3月に川越で大火があり、1,303戸が焼失したが、数軒の蔵造りの建物が焼け残った。このことを教訓とした商人たちは、競って店を蔵造り建築にした。これが蔵造りの町並を生んで、最盛期には200軒余りもあったといわれている。
今日では、市内に30軒余りが残っていりだけになってしまったが、分厚いしっくい壁で塗り込めた蔵造りの店舗が、これだけ軒を連ねて残っているのは、他の都市には見られない景観である。
特に、黒くて厚い壁、大きな鬼瓦と高い棟、どっしりとした風格は、川越の文化と経済の伝統を象徴している。 |
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川越に蔵造りの町並みが形成されるきっかけをなしたのは明治26年の大火だが、それには、次の理由が考えられる。まず、既に川越にあった大沢家をはじめとする蔵造りが焼け残り、耐火建築であることが実証された。次に、川越の商人は江戸時代から荒川の支流である新河岸川を利用した舟運によって繁栄し、富の蓄積があった。さらに、江戸(東京)に既にあった蔵造り商家が耐火建築として有効であることを見聞きしていたと同時に、ある意味で江戸情緒に対する羨望を大火を機に川越の地に実現しようとしたのではないかと考えられる。いい換えると、東京では、少々時代遅れになりつつある蔵造りをあえて選んだわけであり、つまり、東京の繁栄の象徴としての蔵造りに対する執着心の実現であったとも考えられる。
一方、当時の耐火構造物の一つである煉瓦は、塀や門などに採用された。川越の町を歩いていると、蔵造りの漆喰壁と煉瓦という何かミスマッチと思える取り合わせが、妙にいい雰囲気を醸しだしている。(蔵造り資料館の説明より引用)
小江戸と呼ばれる川越市の一番街には、蔵造りの商家が立ち並んでいる。これは、江戸幕府の奨励で、江戸の町に耐火建築として蔵造り商家が立ち並ぶようになり、その影響で川越の商家も蔵造りになった。明治26年に川越大火がありかなり焼失したが、その後再建され現在に至っている。歴史を感じさせる町並みに足がしばし止まる。
重要伝統的建造物群保存地区、美しい日本の歴史的風土100選。 |
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