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この付近(稲毛海岸)は、かつては眼下に海が広がり、潮の香りが漂う緑の松林に囲まれて、夏には海水浴場が設けられた格好のリゾート地であった。そのため著名人により別荘が多く建てられた。この稲毛別荘は、初代神谷伝兵衛(1856−1922)が大正6年(1917)建設に着手し、翌7年(1918)に竣工した。
伝兵衛は、明治時代、「蜂印香竄葡萄酒」(はちじるしこうざんぶどうしゅ)や「電気ブラン」の名を広め、フランスからワイン製造事業を導入した実業家である。
当時は、母屋である木造雁行型の和館とゲストハウスのこの洋館が隣接していたが、現在では、洋館のみが残り一般公開している。建物は海岸段丘を削ったところに立地していて、天井の飾りや二階和室の意匠などに伝兵衛の心意気が見られる。
この建物は昭和59年(1984)、川島豊冶氏より寄付されたもので、市内に残る鉄筋コンクリート建物としても古く、大正12年(1923)の関東大震災による煉瓦建築の崩壊ぶりを見るまで、一般的な建築構造として充分認められていなかった時期に建築されたものとして、建築史の上からも大変貴重である。
神谷伝兵衛は、このモダンな別邸が竣工した4年後の大正11年(1922)に66歳で逝去しているのでこの別荘で静養できたのも僅かの間であった。遠浅だった海は、昭和36年(1961)から開始された埋め立てで、大きく環境が変わり集合住宅や商業施設が立ち並んでいる。海岸線は1km以上遠くに行ってしまったが、本邸は神谷伝兵衛の事績と、100年前の華やな稲毛海岸の別荘地としての記憶を物語っている。
千葉市が平成元年(1989)8月から平成2年(1990)3月にかけて保存修理を行って、平成9年(1997)に国登録有形文化財となっている。 |
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<初期の鉄筋コンクリート建築>
稲毛別荘建築は設計者等や施工者等の記録が無く、残念ながら特定できていない。洋館の構造は、鉄筋コンクリート造り、半地下、地上2階建で、延面積は291u、屋根架構は、キングポストトラス(中央に束のある洋風小屋組)である。
<建築様式と内部の特徴>
建物の外観は、一階ピロティ(ベランダ)正面にロマネスク様式に通じる5つの連続アーチがあり、建物全体の外壁はコンクリートの上に白色磁器質タイルで仕上げ、屋根末端にはおしゃれな金属の持ち上げが設置されている。直線的なデザインはアールヌーボーやゼセッションの影響を受けており、昭和初期に導入されるモダニズム建築への変化をうかがわせる特徴を持っている。
建物の内部は、一階が本格的な洋間であるのに対し、二階が和室となっている。 |
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上の写真は、洋間でのパーティーの様子、→印は板垣退助。
<一階>
扇状の入口階段は庭とバルコニーとをつなぐだけでなく、背後が海岸段丘で玄関が設けられないため、ベランダに設けられた玄関へのエントランスも兼ねている。ベランダは市松模様のタイル床で天井はシンプルだがアーチ上部の内側もタイル貼りである。
内部の装飾は、玄関ホールの天井に持ち送りが施され、シャンデリア中心飾りに葡萄のレリーフを用いたり、洋間に設けたマントルピースはヴィクトリアンスタイルの絵描きタイルをはめ込み、金属製の円柱装飾で上部を支える構成とし、また、床を寄木張りとするなど、華やかなあしらいとなっている。
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<階段>
内部階段は、典型的な洋風階段と見せながら、一階から二階へ続く壁を優美な曲線を描いた白漆喰仕上げとし、途中2箇所に花台をあしらうなど、一階の洋風と二階の純日本風を結ぶために、意識的にしつらえている。
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<二階>
二階は、12畳の主和室と8畳の和室を中心に、他に洋室の小部屋、及び納戸で構成されている。 主和室の東面と南面に広縁が巡り、障子を隔てて静かな空間が確保されている。その南東隅に半円形の眺望台のようなアールコーブがある。洋風の出窓のように見えるが畳敷きではないものの、板張りで砂壁という純和風の作りで、ガラス窓は平板だが壁や窓枠、床も円筒形に加工されていて凝った造りとなっている。
主和室は、数奇屋風のつくりで、床の間が長手方向に設けられ、違い棚や付け書院を合わせもった本格的なものである。 床柱には、葡萄の巨木を用い、天井は囲炉裏にいぶされた煤竹に縁どられた折上げ格天井で、付け書院の欄間にも葡萄の透かし彫りをあしらい、部屋全体を葡萄棚に見立てた仕上げなど、一階の内部装飾とともに、ワイン王神谷伝兵衛をしのばせる意匠が、随所に見られる。 (画像と解説文は I.Hさん提供) |