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「二つ家」と呼ばれる住居形態。座敷を中心とした格式を重んじる「おもて」は、玄関を通す客人のもてなしの場などに使われていた。家族は日常生活のための「なかえ」で普段は生活していた。
ちなみに下加治屋町の西郷隆盛の屋敷地は259坪、大久保利通の屋敷地は206坪で、下級武士の屋敷地はおよそ150坪から300坪程度、200坪前後が平均的であったようです。
この二つ家は、当時の住宅を復元したものです。 |
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<下加治屋町での武士の暮らし>
鹿児島城から離れた甲突川沿いの下加治屋町は、幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛ら下級武士の居住地だった。下加治屋町には、70数戸の下級武士が居住しており、当時の屋敷は二つ家と呼ばれる居住形態であった。
二つ家とは座敷を中心とした格式を重んじる「おもて」と台所など日常生活のための「なかえ」とが樋の間でつながり、屋根は二つでありながら部屋はひと続きになっているという特徴を持つ。当時の屋根は藁や萱で葺いたものが主で、一部瓦を使用したものや板葺などもあったと思われる。
当時の下級武士の生活は質素なもので、米を常食することもできず、内職として傘の骨作りや特産物の櫛作り、農作業の手伝いなどをして食いつないでいたといわれる。 |
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