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伊根は、古くは「伊禰の浦」と言い、その名称については、垂仁天皇の時代(西暦29〜70年)に呼ばれたと言います。古文書「順国誌」に「伊禰の浦より貢を奉る」とあります。
当初、伊根浦の庄と言って、伊根の近辺10ヶ余村を称したのでありますが、後に亀島、平田、日出村の3ヶ村を伊根浦と呼ぶ様になり、古くから当地方の漁業の中心地であり、湾口に碧したたる青島を浮かべ波静かな伊根湾に集落を築いたのであります。
元禄2年、当時の学者、貝原益軒が書いたといわれる「丹後与謝海図誌」によると、伊禰の浦・・・「名也、伊根は惣名にして凡、日出より亀島村まで入海の裏向なり、晴岸の勝景なり。丹後鰤というのは此処にてとる。鯨などもとる也。」と記しており、徳川中期の頃までは、イルカ、鮪、鰹等を盛んに捕っていました。従って、漁船の数も多く、享保2年の「諸色差出帖」によれば、漁船数亀島村240隻、平田村41隻と記されており、いずれも「ともぶと」といわれる軽舟で漁業が営まれておりました。 |
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舟屋は、舟を格納する建物であり、漁業に舟が使用されると同時に建てられたものと伝えらております。又、漁具や魚網の干場にも使用されておりました。
古くは舟小屋に風を入れる為板壁も作らず、藁や古綱を吊るした藁葺平屋建てのものであったが、江戸中期に入って半二階となり、明治中期に瓦葺のものが多くなりました。更に昭和初期には大部分が二階となり、何時でも舟が出せるように若者が寝泊りし、青年同士の交流をする場となり、これを「若衆宿」と呼ばれた舟屋もありました。
現在の舟屋は、往時の面影はなく、舟の格納のみにとどまらず、構造空間を巧に利用し、一階は舟揚場、物置、作業場をもち、出漁準備、漁具の手入、魚干物の乾場、農産物の置場等多種多様に使用され、便所、浴場等も作られています。母屋は山側に建てられ、生活の拠点であるが、舟屋の二階は、二次的な生活の場としての居室となり、若人、若夫婦、又は老夫婦の部屋、客室、民宿等に活用され、一夜を過ごす旅人は、枕辺を打つ波の音にえもいわれぬ風情を味わう事ができます。
この舟屋は海面すれすれに建てられているので、満潮時ともなれば、あたかも家が海に浮かんでいる様な景観となり、全国にも珍しく、波の荒い日本海では他に見ることのできない詩情を漂わせます。(伊根町観光協会HPより引用) |
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渥美清の「寅さん」に出てきた丹後半島の舟屋。この目で確かめたく訪ねる。伊根湾に沿って海面すれすれにずらりと建ち並んだ舟屋は、 水の透明感とともに、詩情を漂わせている。誰もがいつの日かこんな所に来たかったと思わせる風情が心にしみわたってくる。1階は船揚場(船の格納庫)
物置、作業場として、2階は生活の場として活用されている。漁村では全国初の国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。 |