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<高梁市吹屋伝統的建造物群保存地区>
吹屋は、江戸時代以降銅山とベンガラの町として栄え、また、砂鉄や薪炭などの物資を運ぶ中継地として重要な役割を果たしてきた。
この地方一帯は、古来、銅の産地として知られており、開山は中世あるいはそれ以前と伝えられるが、その全盛期は江戸時代から明治時代に及び、吉岡銅山を中心として中国地方随一の産額を誇った。
また、江戸時代中頃に本山鉱山が開かれ、硫化鉄鉱を採掘、良質のローハが盛んに生産され、これからベンガラが製造された。
この二つの産業を背景として吹屋往来に沿って町並みが形成された。保存地区は、下谷と旧道で結ばれる下町・中町・千枚に至る1.2qの地域で道に沿って主屋あるいは土蔵が建ち、敷地後方にも納屋等付属屋がある。
主屋は江戸時代末期から明治時代のものが多く切妻造・入母屋造・平入・妻入のものが混在し、変化のある町並みを形成している。屋根は石州瓦や塩田瓦で葺き、土壁にベンガラを混ぜ格子をベンガラ塗とするなど特色のある町並みをつくり、周囲の自然環境も良好である。
吹屋の町並みは、下谷・下町・中町・千枚の4地区から成っている。ここでは下町・中町・千枚の景観を掲載し、下谷地区は、「吹屋の町並みA」で掲載している。
<ベンガラ(酸化鉄)>
ローハ(硫酸鉄)を原料とし精製した赤色顔料で、古くから九谷焼、伊万里焼、京焼などの陶磁器の赤絵として、能登、輪島などの漆器、衣料の染色、家屋、船舶の塗料など色々な方面に使われた。
<吹屋銅山>
今から千余年前、平安時代に発見され徳川時代は直轄地(天領)となり、代官の支配下で全国の銅山師が請負い経営した。そのうち住友(泉屋)、大塚(福岡屋)、明治になり岩崎(三菱)の経営の三期がピークで町も大いに栄えた。
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<松浦本家(旧日向家)>
江戸末期の建築で、切妻造妻入形式。屋号は松本屋。「中の間」にある箱階段は優品であり、二階には手すりの格子がある。
昔は、雑貨商、木賃宿等いろいろな商売をしていた。戦後は、製材所の事務所に使われていたこともある。昭和25年(1950)から「日向氏」が美容院を始め、約60年間営業していたが、現在は廃業。営業中はテレビ局で何回か放映される「名物ばあちゃん」だった。 |
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<那須家(旧水野旅館)>
江戸時代末期の建築で、平入形式。屋号は松乃屋と称し、三菱時代の吉岡銅山に深く関わった。
先住は昭和初期から親子二代にわたって、旅館を営み繁栄した。土間を奥へ入ると、広い宴会場、吹きさらしの洗面所と四季の彩りを眺められる二つの庭が旅館としての情緒を醸し出している。
昭和52年(1977)、前面は板戸からガラス格子に取り替えた。現在、倉敷「那須家」が引き継ぎ、新たな業のい営みが始まっている。 |
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<旧片山家住宅> 重要文化財
片山家は宝暦9年(1759)の創業以来、200年余にわたって吹屋弁柄(ベンガラ)の製造・販売を手がけた老舗です。その家屋は、弁柄屋としての店構えを残す主屋とともに弁柄製造にかかわる弁柄蔵をはじめとする付属屋が建ち並ぶ「近世弁柄商家の典型」と高く評価されている。 |
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標高550mの山領に、塗込造りベンガラ格子の堂々たる町屋が建ち並んでいるのは江戸時代末期から明治にかけて、中国地方第一の銅山町に加えて江戸時代からベンガラという特産品の生産がかさなり、当時の工鉱業地として大いに繁昌した面影です。
幕末から明治時代にかけて吹屋はむしろ「ベンガラの町」として全国に知られていた。しかも吹屋街道の拠点として、鋼や、中国産地で生産される砂鉄、薪、炭、雑穀を集散する問屋も多く、備中北部から荷馬の行列が吹屋に続き、旅籠や飲食店の立ち並ぶ山間の市場として吹屋の繁昌を保っていた。
これらの鋼や鉄、ベンガラは吹屋から更に荷馬に負わされて成羽へ運ばれ、それから高瀬舟で玉島港に集められ、玉島港から上方や四国へ輸送された。江戸時代から成羽や玉島の繁栄は吹屋の鉱工業に負うところ大きかったと言われている。 |
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<当時の俗謡>
吹屋よいとこ 金吹く音が
聞こえますぞえ 窓坂え
吹屋よいとこ 金掘るところ
掘れば掘るほど 金が出る
場所じゃ場所じゃ 吹屋は場所じゃ
東城やせ馬 来る場所じゃ |
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