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相倉集落には、合掌造りの建物が新旧民家と寺、道場、合掌小屋を合わせて24棟ある。そのうち人が住んでいる民家は11棟で、旧民家の空家が10棟もある。
五箇山と称するこの地方は、古い時代から峠を越えた山向こうの城端町との交易によって生計をたててきた 相倉はその街道筋に位置して人の往来が絶えなかった。それが昭和初期の自動車道開通後は往来筋からはずれ、自動車道の閉鎖される冬期だけの交通路になった。それも昭和45年(1970)にかの有名な峠雪道を往復した郵便逓送隊の廃止となり、ついに交通路線に位置しなくなってしまった。
現在の戸数や人口は昔に比べると極めて少ない。養蚕製糸・製紙・製炭の主要産業の廃退と高度成長期の都市部への人口流出による過疎化現象だが、近年は道路網が整備され観光産業の発展で相倉集落を訪れる観光客が多くなり活気がよみがえってきた。(相倉合掌造り保存財団HPより) |
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相倉集落にある相念寺沿革によると、今をさる約450年前に創始されたとある。又下梨瑞願寺所蔵の古文書によると天文21年1月27日付けで、相倉村九郎三郎先祖、図書了観なるもの道場を坊守したとある。当時は真言宗に属しておったが後浄土真宗に転派した。現堂宇は安政6年再建し現在に至るもので歴史的に古きが立証される。現在30有戸が一段丘に集落を形成し、今は20有戸の合掌造り建築が残り時代の変換により建築様式の変化もうかがわれ煙硝製造、和紙製造、養蚕製茶をもって糧としていたことなどが遺り、貴重な庶民生活の状態を今に遺しているものである。(昭和45年(1970)国指定史跡 「越中五箇山相倉合掌造集落」説明文) |
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軒先からつららが垂れ下がる。郵便ポストが雪に埋もれそう。雪の白とポストの赤の対比がまぶしいくらいだ。豪雪地帯らしい雪景色である。人が通った跡を緊張しながら歩く。時々ズボツと雪の中に足がめり込む。 |
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相倉集落の背後の小高い道から撮る。集落の規模は大きくない。山に囲まれ雪に埋もれてしまいそうな合掌造り家屋が眼下に見える。
旧平村、旧上平村、旧利賀村の三村は、谷が深く山が険しい。庄川沿いにある5つの谷間(赤尾谷、上梨、下梨、小谷、利賀谷)の総称で、「五ヶ谷間」を音読して「ごかやま」(五箇山)と呼ぶようになったといわれている。
合掌造りの家は、雪深い五箇山の風土の中で産まれ守られてきた。五箇山では、このほか数多くの民話など独特の文化が今に伝えられている。
昭和45年(1970)に国史跡に、平成6年(1994)に重要伝統的建造物群保存地区に、平成7年(1995)に飛騨白川郷と共に合掌造り集落としてユネスコの世界遺産に登録をされた。 |